1: ファリサイ派の罠
今日の箇所は、結婚することが良いとか悪いとか、または結婚しないことが良いとか悪いとか、そのようなことを教えているのではありません。イエス様は結婚ということをモデルに、人間が「共に生きる」ということを教えられているのです。
ファリサイ派の人々は、イエス様を試すためにこの話を持ち掛けたのです。ファリサイ派の問いに、イエス様がどのように答えても、どこかで必ず反発が起こるはずでした。しかし、この問いにイエス様は「創造主なる神が男と女を造られた」と、人間として共に生きる存在であることを示されたのです。
2: 自分と違う存在との関係
イエス様は、結婚とか離婚ということの前に、まず神様が結婚という人間関係をどのような意味で作られたのか、ということを教えられます。
神様は人間を神様ご自身にかたどって創造された。人間には、それぞれ違いがありますが、そこには優劣はなく、「わたし」と「あなた」という別々の存在を通して、神様は人間という存在を創造されたのです。これは男女の関係に留まるものではありません。人間は、自分という存在だけで完結する者ではなく、他者という存在がある中で生きているのです。
3: 共に生きる
イエス様はここでは結婚ということをモデルに、人間が「共に生きる」ということを教えられます。 当時のユダヤ社会において、結婚は神様の命令として当然のことと考えられていました。その中で、イエス様は、11節から結婚しない生き方を教えられました。「当然」のことを「当然ではない」とされたのです。「当然だろう」という価値観は知らず知らずのうちに人を傷つけている場合が、数多くあるのです。
私たちはそれぞれに違うものを持つ存在でありながらも、そのすべての者が、神様に愛されて生かされているのです。私たちは「自分は愛されている」で留まるのではなく、「神様は自分を愛してくださっている。そして神様は、他者も愛されている」、という、神様の愛を受け取り、神様に目を向け、その愛をもって、他者と共に生きる者とされていきましょう。(笠井元)