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2020.8.23 「共に生きる存在」(全文) マタイによる福音書19:1-12

1:  ファリサイ派の罠

 まず最初に、今日の小見出しが「離縁について教える」となっており、読んでみると、離縁、または結婚という言葉が多数出てきます。そのため、内容も結婚、離婚のことだと思ってしまいます。しかし、今日の箇所は、結婚することが良いとか悪いとか、または結婚しないことが良いとか悪いとか、そのようなことを教えているのではありません。イエス様は、ここでは結婚ということをモデルに、人間が「共に生きる」ということを教えられているのです。今日は、ここから私たちは「他者と共に生きる」ことについて、学んでいきたいと思います。 結婚や離婚はとてもデリケートな問題です。個人個人のこれまでのそれぞれの経験によっても考え方が大きく違うものとなります。 そして、今日の箇所では、そのようなデリケートで難しい問題だからこそ、ファリサイ派の人々は、イエス様を試すためにこの話を持ち掛けたのです。実際に、イエス・キリストの道を備える者として現れた、バプテスマのヨハネは当時の領主ヘロデ・アンティパスの離婚、再婚を非難したために殺されることになったのです。結婚や離婚についての解釈は、人々の感情を大きく揺れ動かす問題であり、人々はこのことから、イエスを社会から追放する大きな口実を得ようとしていたのです。

 ファリサイ派の人々は、イエス様に【「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と】(マタイ19:3)尋ねたのです。「何か理由があれば」。このファリサイ派の人々の言葉は旧約聖書の申命記からの言葉でした。申命記にはこのように記されています。【人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。】(申命記24:1

 ここでは「妻に恥ずべき事、気に入らないことがあれば」と言います。当時の人々は、この、「恥ずべき事、気に入らないこと」が、どのようなことなのかということを議論しており、ユダヤ教の中でもいくつかの考えに分かれていました。「姦通など不品行」のことが「恥ずべきこと」だと言う人もいれば、「妻が夫の夕食を忘れた場合」、「妻より美しい人が現れた場合」それも「恥ずべきこと、気に入らないこと」に当てはまるとも考えた人たちもいたようです。男性が「気に入らなければ離婚してよい」ということ自体問題です。しかも、それが「夕食を忘れたとか、妻より美しい人が現れたから」などと言えば、逆に「あなたが夕食を作りなさい」「あなたは自分を見てから物を言いなさい」と言われてしまいます。ただ、当時のユダヤの男性は、役に立たない、気に入らない妻は離婚してよい、それが自分たちの権利だと考えていたのです。しかし、歴史を見てみますと、この当時のユダヤ人男性だけが特別おかしな考えを持っていたというよりも、むしろ男が女性をそのように考える時代のほうが長く続いていたのではないかと思うのです。そして現代も、女性の努力によって女性の権利が認められてきたとはいえ、実際には、まだまだ男尊女卑の考えが社会の根底にあるのだと思うのです。

 このファリサイ派の問いに、イエス様がどのように答えても、どこかで必ず男性から反発が起こるはずでした。つまりこの問いは、ファリサイ派の人々がイエス様を陥れるために尋ねた、「罠」でした。この問いに対して、イエス様は「離縁してよい理由」を答えるのではなく、全く別の立場で応えました。それは「創造主なる神が男と女を造られた」という言葉にあるように、男女は対等な立場にある存在で、人間として共に生きる存在であることを示されたのです。

 

2:  自分と違う存在を受け入れる

 イエス様は離婚をするならば・・・ということの前に、まず結婚とはどういうものなのか。神様は結婚という人間関係をどのような意味で作られたのか、ということを教えられたのです。イエス様は【「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」】(マタイ19:4)と言われました。これは創世記の言葉、【「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」】(創世記1:27)という言葉から引用された言葉です。神様は人間を神様ご自身にかたどって創造された。現在は、男性と女性とに分けること自体も問題となりますが、ここで聖書は、神様が「二つの別の存在」をもって創造されたと教えるのです。つまり、人間には、自分とは違う存在があるということです。そしてそこには優劣はなく、「わたし」と「あなた」という、別々の存在を通して、神様は人間という存在を創造されたということです。

 続けてイエス様はこのように言われました。【「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」】(マタイ19:5-6)この言葉は創世記2章から引用した言葉となります。ここで「神が結び合わせてくださったもの」という言葉を、岩波訳では「神が一つ軛に合わせられたもの」と訳しています。つまり、男女は神様に結びあわされた者であり、それは同等の立場であり、同様の軛、重荷を共に背負い、生きる者とされたということです。ここでは男女の夫婦としての関係をもって語られていますが、これは男女の関係に留まるものではないのです。人間は、自分という存在だけで完結する者ではなく、他者という存在がある中で生きている。そして、二つの別々の存在が同じ軛をもち、共に生きるときに、そこに神様の愛の御業が表される。これが人間の存在の本質なのです。 

 今日の箇所では、夫婦関係を通して、人間関係とはどういうものなのかを教えています。「家族」の定義として国語辞典では「夫婦を中心とした、主に血縁の人々の集まり」とされています。

 家族の定義には「夫婦」と「血縁」がある。これはある意味、人間関係は「血縁」だけに頼っていては、本当の家族という関係に生きることができないということだと思うのです。教会では、お互いを「兄弟姉妹」を呼び合いますが、それは血縁関係ではなく、キリストを中心とした信仰の関係によります。人間の関係。それは自分と他者という存在を認め、受け入れて、共に生きるときに本当の関係が生まれるのです。

 ヨハネの手紙ではこのようにも言われています。 【「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」】(Ⅰヨハネ4:12)

 

3:  共に生きる

 イエス様はここでは結婚ということをモデルに、人間が「共に生きる」ということを教えられます。当時のユダヤ社会において、結婚は神様の命令として、当然のことと考えられていました。その中で、11節からイエス様は、結婚しない生き方を教えられました。イエス様は「当然」のことを「当然ではない」とされたのです。私たちが持っている「当然だろう」という価値観は、知らず知らずのうちに人を傷つけている場合が、数多くあります。私たちは、「自分が当然だと思っていることは、他者にとっても当然だ」「自分は正しい」という間違いに陥っていないか、自分の正しさを人に押し付けていないか、確認していく必要があるのです。イエス様はここで、結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者、そして天の国のために結婚しない者もいると教えられました。実際、聖書では、先駆者バプテスマのヨハネ、または伝道者パウロ、そしてイエス様ご自身も結婚されない人生を歩んだのでした。イエス様は「共に生きる」ということを、結婚という男女の人間関係を一つのモデルとして話をされながらも、それが絶対で、そうでなければ神様の愛を表すことができないと言われているわけではないのです。

 この世界には、すべての人間が別々の存在であり、コピーされたような同じ人間はいないのです。神様は、そのすべての人間を愛されて生かされているのです。そしてすべての人間が、その存在を認められており、愛されているのです。だからこそ、私たちはお互いに共に生きる者とされていきたいと思います。

 「共に生きて、愛し合う」。神様は、私たちを愛されている。その愛に条件はありません。誰が、どのような者であっても愛されています。それは「そのままの自分で、無条件に愛されている」ということです。しかし、私たちが、何も考えず、そのままの自分である時、私たちは、神様に愛されながらも、人を愛する者となることはなかなかできないのではないでしょうか。むしろ、自分という者を正当化し、違う者、他者を排除してしまう、そのような弱さを持っているのです。それが人間の弱さであります。だからこそ、私たちは神様に目を向ける必要があるのです。私たちは、自分が、そのままの自分であろうとし続けるだけでなく、神様によって変えられていきたいのです。

 神様が、わたしもあなたも愛してくださっている。この神様の愛に目を向ける時、私たちは、自分を愛してくださる神の前にあって、変えられていくのです。私たちは「自分は愛されている」で留まるのではなく、「神様は、自分を愛してくださっている。そして神様は、他者も愛されている」、という愛を受け取り、その愛をもって、他者と共に生きる者とされていきましょう。(笠井元)