1: 無力な者
今日の箇所は13節~15節と16節~22節とに分けることができます。最初の13節からは「子ども」について語られます。そして、そのあと16節からの話では、「一人の青年」について語られます。この「子ども」と「一人の青年」は、まったく違う二つの立場にあります。
ここでは「子ども」のことを何よりも、弱く、小さい存在として意味しています。「人々」となっていますが、たぶん親が子どもたちに、イエス様による祝福をいただきたいと願い、連れてきたのでしょう。子どもたちは、自分の意志ではなく、ただ親に連れてこられたのです。イエス様はこの子どもたちを祝福されました。この子どもたちの姿は、依存する者として、また無力な者としての姿を表します。あまり「子どもは無力である」と言いすぎるのも問題かもしれませんが・・・ここでは子どもは依存していないと生きていけない弱い者としての象徴として表されているのです。まさに人間の無力さを教えます。私たちは今、新型コロナウイルスや自然災害を前に、自分たちの無力さを感じています。子どものような者とは、自分の無力さを受け入れ、神様により頼む者を意味します。
ここでイエス様は、【「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」】(14)。つまり、子どものように、神様に委ねる者となりなさいと教えられているのです。
2: 何をすればよいのか
ここに一人の青年がやってきます。この青年はある意味、子どもとはまったく逆の立場にいたのです。多くの財産をもちながらも、まじめに誠実に生きていたのです。つまり、財産もあり、学ぶこともできる環境にあり、他に、必要なものは何があるだろうか・・・と悩むような、誰もが羨むような恵まれた環境で育ったような青年です。つまり、何でも持っている者。それがこの青年でした。
しかし、そのような者が「何かが足りない」と感じていたのです。ユダヤの律法も守り、できる限りのことはなんでもしてきたはずですが、「何かが足りない」と感じていたのです。そしてだからこそイエス様のところに来たのです。本当に立派な青年だと思います。
青年はイエス様に【「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」】(16)と尋ねたのです。青年の一つの間違いは「何かをすることで、永遠の命を得ることができる」と考えていたということです。この青年は、善いこと積み重ねることによって、永遠の命を得ることができると思っていたのです。それに対してイエス様は【「善い方はおひとりである」】と答えられ、【善い】のは神様という存在を意味するので、「何かをすることで永遠の命を得ることができるのではない」ことを教えられているのです。
3: どこによりどころを置くの
そして、イエス様は【「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」】(21)と答えられました。ここで勘違いしてはいけないことは、財産をすべて売り払い、貧しい者に施すことで「完全な者となれる」「永遠の命を得ることができる」ということを言っているのではないのです。イエス様はこの青年の一番の問題を見抜かれてこのように言われたのです。それはその人生のよりどころを財産に置いていたということです。これだけは投げ出すことはできない。それがこの青年の生き方だったのです。つまり、この青年と神様とを隔てるものとして財産があったということです。 これは決して財産をもってはいけないということではないのです。ここで言われていることは、何よりもただ、その人生のよりどころを神様にすることを教えられているのです。
4: 完全な者
青年の心の中心には財産があったのです。だからこそ、イエス様は、この財産を手放しなさいと言われたのです。わたしたちは、自分と神様とを隔てるものとして何を持っているでしょうか。 財産でしょうか。それとも知恵や力や権力でしょうか。または、病気や欠点、自分の弱さといったものでしょうか。それらがすべていけないものであるということではありません。財産も、知恵も力も、それこそ病気も、欠点も神様がくださった、大切な賜物なのです。しかし、それが神様と自分を隔てるものとなることがあるのです。
わたしの神学生の時の友人で、牧師になるために一緒に勉強した一人に、・・・財産はありませんが・・・この青年のように、何かが自分には足りないと思い、卒業後も何をするべきか考えていた人がいました。そのような悩みのなか、その友人はある時、大きな事故によって、障碍を持つことになったのです。そのあともいろいろと悩んだようですが、その事故を通して、自分の弱さを無力さというものを受け入れていく者とされていき、神様をよりどころとして生きる決心をしたのでした。
私たちは、人生の拠り所、その土台として何を持っているのでしょうか。イエス様は「子どものようになりなさい」と言われました。つまり、自分の無力さを受け入れ、神様に委ねるという心を持つことを求められたのです。
今日は、これからバプテスマ式が行われます。バプテスマは、その信仰に基づいて、心にイエス・キリストを迎えると決心したことを表す時となります。これは人生のよりどころをキリストに置くと決心をすることです。私たちが何を人生のよりどころとしていくのかということは、生きている限り続く決断のことなのです。私たちは、完全な者となるために、自分で何かをしようとするのではなく、子どものように、自分の無力さを受け入れて、神様により頼み、生きていきたいと思います。(笠井元)