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2020.9.13 「神の民の共同体をめざして」(全文) エフェソの信徒への手紙2:19-22

 皆さんにとって、教会とは何でしょうか。今日はこの問いを念頭に置き、一緒に考えながら、御言葉に聞いていきたいと思います。教会とは何か、私はこの問いを全く抱かずに、2005年の秋、地元の大連の教会で洗礼を受けました。今月11日が記念日を迎え、16年目の信仰生活をスタートしようとしています。15年の信仰者としての歩みを振り返ってみますと、15年間色々ありましたが、一番鮮明に覚えているのは、はやり洗礼を受けたあとの喜びでした。「教会の水を浴びてクリスチャンになりました。万歳!」という気持ちを抱きつつ、周りの人や普段通っている街の風景、その全てがキラキラ輝いているように見えてきました。信仰者になってはっきり自覚したのは、「自分は神様に愛されている」こと、「イエス様が一緒だから、私はもう独りじゃない」ということでした。18歳の自分の周りには常に優しい友人や同僚がいて、見守ってくれる両親がいましたが、なかなか弱音を吐かない自分、本当は寂しくて、孤独さえを覚えていたのかもしれません。洗礼を受けて、何も言わなくても自分の強がりや弱さを知ってなお愛し、理解してくれる神様との出会い、今まで経験したことのない喜びを感じたのです。その翌年日本に留学することになり、母国を離れることになりました。長年外国で生活していく中で、寂しさを覚えたり、様々な重荷を負い続けたりして、常に限界を感じていました。そんな時に、信仰を求めなきゃという思いがだんだん強くなり、その思いの先に私が出会ったのは、教会でした。

 

 もともと中国や日本といったアジアの国に伝えられたプロテスタント・キリスト教は、信仰を個人的、内面的なものと捉える傾向の強いものだと言われます。つまり、キリスト教信仰は、個人の信仰体験を重んじ、高い倫理性を持つ「個人の信仰」として受けとめられてきました。もちろん、キリスト教では、個人の回心と救いを中心とする信仰理解は、極めて重要なものとされます。しかし、なぜ人が洗礼を受けてクリスチャンになったら教会に通いはじめるのでしょうか。キリスト教界のルールだから逆らうことができないからでしょうか。それとも、キリスト教信者・先輩が教会・礼拝を守り続けてきたからでしょうか。私たちの中では、教会に通うきっかけや理由が人によってそれぞれですが、「聖書を学びたい」「人とお喋りしたい」「奉仕があるから来ないといけない」「賛美歌を歌いたい」「○○牧師の説教を聞きたい」など。このようなきっかけで教会に来ているのはとても有難いものですが、教会生活をしていく上で、教会に来るために「なくてはならない理由」も考えるべきではないでしょうか。この度、前田麗奈さんのバプテスマクラスを担当させていただく際に、「教会とは何か」ということを改めて問い直させられたと気がしています。

 

1、教会とは何か

 「教会」という言葉は、多くのカルト宗教でも使われていますが、本来はキリスト教が日本に入ってきてから、信徒の礼拝所を言い表す言葉として造られました。中国でも同じ「教会」という言葉を使っています。「教会」を言い表す英語は「church」、その語源であるギリシャ語は「ekklesia(エクレーシア)です。エクレーシアは「神に集められた者」「神に呼び出された者たちの集団」というように理解されていますが、神に選ばれたイスラエルの民は「神の民」と呼ばれ、正に「エクレーシア」そのものを表していると思います。

 

 先週礼拝の中では、笠井先生が申命記の箇所を取り上げられてお話されました。神様に選ばれたイスラエルが、「神の宝の民」とされたという歴史物語を通して、「イスラエルの『貧弱さ』『弱さ』ゆえに心を動かされた神様の存在と愛」に感動すると共に、新たに気づかされたこともあります。それは、神様が「個人」ではなく、「群」としてイスラエルを選び、そして「神の民」というアイデンティティと共同体意識を与えたということです。

 

 旧約聖書におけるイスラエルの共同体意識は何前年もの間「宗教的意識」として受け継がれてきましたが、イエスキリストがこの世に来てくださることによって、「神の民」という共同体が新しく形作られ、「教会」という具体的な形へと変えられました。従って、教会は、神に従う人のために残された「神の民の新しい共同体」と言えます。

 

 「教会」という言葉には「教」という漢字が含まれているので、「教え」が中心だと考えがちです。しかし、聖書では、「教会はキリストの体である」(エフェソ123)、教会は、「神の民」「神の家族」「神の建物」「聖なる神殿」「神の住まい」(エフェソ219-22)と記されています。どの表現を見ても、教会が、学びや親睦、霊的な満足といった機能として理解されることなく、「神に呼び集められた人たち」の共同体、神によって結ばれ互いに影響し合い、支え合う共同体、有機的な身体性を持つ共同体として理解されているように思います。

 

2、共同体としての教会

 たまたま、教会の会堂の作りは学校の教室のように見えると言われることがあります。確かに、私自身も含めて、礼拝で一緒に座っていても、みんなが個人として神(と牧師)に向き合っていますが、共同体として礼拝を捧げているという意識は希薄になっているのではないかと感じたことがあります。確かに牧師の説教を聞くのも、礼拝という儀式に参加するのも大事ですが、礼拝は個人的に恵まれるための儀式ではなく、キリストの体が建てられるためのもの、つまり私たち一人ひとりが「キリストの体」の部分であることを確信し、教会という共同体に属することを自覚するためのものだということです。

 

 また、だいぶ改善されたのですが、中国や日本の教会で用いられてきた讃美歌の多くは、「わたしたち」ではなく「わたし」の信仰を歌う歌詞のものが多く、これはキリスト教信者側が、個人主義的な信仰理解を持っていたことと深く関係していると思われます。

 人は、共同体を必要とする生き物です。この世には、様々な共同体があります。学校共同体、スポーツクラブ、塾、企業共同体、血縁共同体、地域共同体、国家共同体などありますが、教会はこれらの共同体に覆い隠されることなく、常に神に呼び出された群として聖なる共同体である自覚を持って、周りの人と共に信仰の道を歩むべきです。

 

3、礼拝者・寄留者・弟子の共同体

 したがって、現在私たちの取り組むべき宣教の課題は、この世において、どのような仕方で神の民としてのアイデンティティを保ち、教会本来の共同体性をどのように構築するかということです。先月読んだ一冊の本の中に、教会とは何かを考える際に、四つの観点(『宣教って何』キリスト新聞社)を提示してくれました。まず、教会は「礼拝者の共同体」であると語ります。つまり、私たちは教会で礼拝することを通して、この世が礼賛するものを神として崇めるのではなく、天地万物の造り主である唯一の神だけを崇めるという意志を表明しています。また礼拝において、この世の価値とは異なるものを価値として重んじることをも表明し、愛に根差した信仰的交わりが存在していると世に伝えます。続いて、教会は「寄留者の共同体」であると言います。つまり、神の民とされる私たちは、この世の定住者ではなく、来るべき神の国を探し求める寄留者であるということです。それは私たちがこの世を捨てるとか、軽視するということではなく、自分が本当はどこに帰属しているのかをはっきりと自覚することを意味しています。私たちの周りから見れば、教会はマジョリティではなく、マイノリティな存在なのかもしれません。しかし、マイノリティだからこそ、世の中の多数者の文化、価値観、交わり、生き方に惑わされることなく、寄留者として神の国の文化、価値観などを求めることができます。次に、教会は「弟子の共同体」です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ2819)とありますが、キリストの弟子になるということは、神学生、牧師、執事へと召された一部の人のことではありません。キリストを信仰するということは、キリストの弟子になるということです。つまり、私たちがそれぞれの立場、それぞれの生活と労働の場において、イエスキリストの証人であり、教会の働きの担い手なのです。教会という弟子の共同体は、私たちに自分がキリストの弟子であるということを常に思い起こさせてくれるのです。

 

4、世を福音化する共同体

 もともと中国や日本といったアジアの国に伝えられたプロテスタント・キリスト教は、信仰を個人的、内面的なものと捉える傾向の強いものだと言われます。つまり、キリスト教信仰は、個人の信仰体験を重んじ、高い倫理性を持つ「個人の信仰」として受けとめられてきました。もちろん、キリスト教では、個人の回心と救いを中心とする信仰理解は、極めて重要なものとされます。しかし、なぜ人が洗礼を受けてクリスチャンになったら教会に通いはじめるのでしょうか。キリスト教界のルールだから逆らうことができないからでしょうか。それとも、キリスト教信者・先輩が教会・礼拝を守り続けてきたからでしょうか。私たちの中では、教会に通うきっかけや理由が人によってそれぞれですが、「聖書を学びたい」「人とお喋りしたい」「奉仕があるから来ないといけない」「賛美歌を歌いたい」「○○牧師の説教を聞きたい」など。このようなきっかけで教会に来ているのはとても有難いものですが、教会生活をしていく上で、教会に来るために「なくてはならない理由」も考えるべきではないでしょうか。この度、前田麗奈さんのバプテスマクラスを担当させていただく際に、「教会とは何か」ということを改めて問い直させられたと気がしています。

 

1、教会とは何か

「教会」という言葉は、多くのカルト宗教でも使われていますが、本来はキリスト教が日本に入ってきてから、信徒の礼拝所を言い表す言葉として造られました。中国でも同じ「教会」という言葉を使っています。「教会」を言い表す英語は「church」、その語源であるギリシャ語は「ekklesia(エクレーシア)です。エクレーシアは「神に集められた者」「神に呼び出された者たちの集団」というように理解されていますが、神に選ばれたイスラエルの民は「神の民」と呼ばれ、正に「エクレーシア」そのものを表していると思います。

 

先週礼拝の中では、笠井先生が申命記の箇所を取り上げられてお話されました。神様に選ばれたイスラエルが、「神の宝の民」とされたという歴史物語を通して、「イスラエルの『貧弱さ』『弱さ』ゆえに心を動かされた神様の存在と愛」に感動すると共に、新たに気づかされたこともあります。それは、神様が「個人」ではなく、「群」としてイスラエルを選び、そして「神の民」というアイデンティティと共同体意識を与えたということです。

 

旧約聖書におけるイスラエルの共同体意識は何前年もの間「宗教的意識」として受け継がれてきましたが、イエスキリストがこの世に来てくださることによって、「神の民」という共同体が新しく形作られ、「教会」という具体的な形へと変えられました。従って、教会は、神に従う人のために残された「神の民の新しい共同体」と言えます。

 

「教会」という言葉には「教」という漢字が含まれているので、「教え」が中心だと考えがちです。しかし、聖書では、「教会はキリストの体である」(エフェソ123)、教会は、「神の民」「神の家族」「神の建物」「聖なる神殿」「神の住まい」(エフェソ219-22)と記されています。どの表現を見ても、教会が、学びや親睦、霊的な満足といった機能として理解されることなく、「神に呼び集められた人たち」の共同体、神によって結ばれ互いに影響し合い、支え合う共同体、有機的な身体性を持つ共同体として理解されているように思います。

 

2、共同体としての教会

たまたま、教会の会堂の作りは学校の教室のように見えると言われることがあります。確かに、私自身も含めて、礼拝で一緒に座っていても、みんなが個人として神(と牧師)に向き合っていますが、共同体として礼拝を捧げているという意識は希薄になっているのではないかと感じたことがあります。確かに牧師の説教を聞くのも、礼拝という儀式に参加するのも大事ですが、礼拝は個人的に恵まれるための儀式ではなく、キリストの体が建てられるためのもの、つまり私たち一人ひとりが「キリストの体」の部分であることを確信し、教会という共同体に属することを自覚するためのものだということです。

 

また、だいぶ改善されたのですが、中国や日本の教会で用いられてきた讃美歌の多くは、「わたしたち」ではなく「わたし」の信仰を歌う歌詞のものが多く、これはキリスト教信者側が、個人主義的な信仰理解を持っていたことと深く関係していると思われます。

人は、共同体を必要とする生き物です。この世には、様々な共同体があります。学校共同体、スポーツクラブ、塾、企業共同体、血縁共同体、地域共同体、国家共同体などありますが、教会はこれらの共同体に覆い隠されることなく、常に神に呼び出された群として聖なる共同体である自覚を持って、周りの人と共に信仰の道を歩むべきです。

 

3、礼拝者・寄留者・弟子の共同体

したがって、現在私たちの取り組むべき宣教の課題は、この世において、どのような仕方で神の民としてのアイデンティティを保ち、教会本来の共同体性をどのように構築するかということです。先月読んだ一冊の本の中に、教会とは何かを考える際に、四つの観点(『宣教って何』キリスト新聞社)を提示してくれました。まず、教会は「礼拝者の共同体」であると語ります。つまり、私たちは教会で礼拝することを通して、この世が礼賛するものを神として崇めるのではなく、天地万物の造り主である唯一の神だけを崇めるという意志を表明しています。また礼拝において、この世の価値とは異なるものを価値として重んじることをも表明し、愛に根差した信仰的交わりが存在していると世に伝えます。続いて、教会は「寄留者の共同体」であると言います。つまり、神の民とされる私たちは、この世の定住者ではなく、来るべき神の国を探し求める寄留者であるということです。それは私たちがこの世を捨てるとか、軽視するということではなく、自分が本当はどこに帰属しているのかをはっきりと自覚することを意味しています。私たちの周りから見れば、教会はマジョリティではなく、マイノリティな存在なのかもしれません。しかし、マイノリティだからこそ、世の中の多数者の文化、価値観、交わり、生き方に惑わされることなく、寄留者として神の国の文化、価値観などを求めることができます。次に、教会は「弟子の共同体」です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ2819)とありますが、キリストの弟子になるということは、神学生、牧師、執事へと召された一部の人のことではありません。キリストを信仰するということは、キリストの弟子になるということです。つまり、私たちがそれぞれの立場、それぞれの生活と労働の場において、イエスキリストの証人であり、教会の働きの担い手なのです。教会という弟子の共同体は、私たちに自分がキリストの弟子であるということを常に思い起こさせてくれるのです。

 

4、世を福音化する共同体

 最後に、教会は「世を福音化する共同体」であると明言します。先週、笠井先生礼拝の中で言われたとおり、私たち人間は、常に自分の平和を求めて生きています。しかし、教会は他者の平和を願い、他者の平和を実現することに目を向ける共同体です。教会が愛と憐れみ、和解と平和の共同体である以上、社会的構造によって苦しめられ疲弊させられている人々、世の共同体に問題を感じている人々に、別の共同体の可能性を示していかなければなりません。また、差別、偏見、暴力、抑圧などの非人間的扱いを無くすために努力します。教会は、福音・平和を世に表わす神の働きに参加するように召されているのです。(劉雯竹)