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2020.9.20 「神によって新しくされる」(全文) ルカによる福音書11:37-44

 

 今日は敬老感謝礼拝です。キリストに出会い、信仰を持って、年を重ねることは、多くの恵みを神様からいただく喜びの日々です。しかしまた、信仰を頂いた後も、困難がまったくなくなるというわけではありません。多くの困難にぶつかり、何度も挫折し、神様からも離れることもある。それでも、もう一度イエス・キリストに出会っていく、その連続が、信仰者として生きるということだと思うのです。

 今日は、自分の信仰の人生を振り返る中で「神様に立ち返っていくこと」、「信仰をもって日々新しくされ生きる」ということを学んでいきたいと思います。

 

1:  食卓において作られる関係

 今日の箇所において、イエス様は、ファリサイ派の人から、食事の招待を受けたので、その家に入り、食事の席に着かれました。食事の場、食卓というものは、人と人のかかわりの場所として大切な場所となります。共に、食卓を囲む時、人々は、そこでお互いを知り、お互いの心が明らかにされていくのです。心が明らかにされるということ、それは、心を開くこともあれば、心を閉ざしていくこともあると思うのです。人は、食卓の場において、共感し、関係を深めることもあれば、お互いを受け入れられず、仲違いすることもあるのです。 今日の箇所において、イエス様は、身を清めるという行為をされませんでした。そのことから議論が始まり、食事の後、結果ファリサイ派の人々は、イエス様に激しい敵意を抱いたのです。

 

2:  外側ではなく内側を見る

 ファリサイ派の人は、イエス様が身を清めないことを不審に思いました。食前に身を清めるということは、もちろん衛生的にも大切なことです。ただ、それだけではなく、ファリサイ派の人々にとっては、神様に従う戒めとして大切な行為でもありました。イエス様は、ファリサイ派の人々が、大切にしていた戒めを守られなかった。そして、このことをきっかけに、ファリサイ派の人々に、言葉を語りかけられるのです。

 【実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。】(39

 イエス様は、ここで、ファリサイ派の人々に、このように語られます。それは、「あなたがた、ファリサイ派の人々は、掟を守って、一所懸命に、自分の外側はきれいにしようとするが、自分の内側をちゃんと見てみなさい」「自分の内側は真っ黒になってはいませんか。」「自分の内側、心の中は、神様に明け渡されていますか。」と、問われているのです。イエス様が見つめておられるのは、外見のことではなく、内側の心のことです。心の中が、神様の前にあって真実であること、このことこそ大切だと、イエス様は語られているのです。

 

3:  正義の実行と神への愛

 イエス様は42節から十分の一の献げ物について語られます。ファリサイ派の人々は、神様の戒めを徹底して、厳しく守る人々でした。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)、それに加えて、日常の食物である、野菜もまた必ず十分の一捧げていたのです。徹底して、戒めを守り、十分の一を神様に捧げること、そのこと自体は、決して悪いことではないのです。むしろ、私たちは、ファリサイ派の人々から、信仰の行為の大切さを学ばなければならないでしょう。イエス様も、「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならない」と語られました。しかし、ファリサイ派の人々は、その行為のみを徹底して大切にしてしまい、「正義の実行と神への愛」をおろそかにしてしまった。ファリサイ派の人々は、熱心に献げ物をする中で、いつの間にか、神様から生かされていること、また神様に養われ、導かれていることを忘れてしまっていたのです。

 

4:  「あなたたちは不幸だ」

 イエス様は、今日の箇所から、そのあと54節までにおいて、「あなたたちは不幸だ」と、6回も繰り返されて語られるのです。この、言葉はイエス様が私たちを見捨てて、「不幸でありなさい」と命じた言葉ではありません。イエス様は、今日の箇所において、まず、ファリサイ派の人の食卓に着かれてから、話しを始められたのです。つまり、イエス様は、まずお互いの心を明らかにされる、その場所に来られたのです。この食卓にイエス・キリストが来られたということ。それはイエス・キリストが、私たちと向かい合われる場所に来てくださった、キリストは私たちの心と、向き合って下さっていることを意味します。そのようなイエス様の「あなたたちは不幸だ」という言葉は、ご自身が、痛みをもって語られた言葉です。イエス・キリストは、私たちの「心のうち」、そしてその「弱さ」を受け止めてくださった上で、み言葉を語ってくださるのです。

 

5:  新しい者とされる

 イエス・キリストは、私たちの心を受け止めると同時に、私たちが、そこから新しく生まれ変わるように、望まれているのです。今日の招詞はⅡコリントから読んでいただきましたが、このように教えます。【だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。】(Ⅱコリント4:16)

 私たち人間は日々新たにされていきます。その新しさとは、肉体的なものでも、知能や知識といったものでもありません。肉体は、思春期から成人するまでに大きく成長します。そしてその後急激に減速して、その後は現状維持をするのみとなります。また、知能は生まれた直後に脳細胞の数は一番多くて、その後は次第に減っていくのです。ただ、脳細胞の数は減るのですが、それらをつなげる連絡網が発達することで、これは成人しても成長します。しかし、これもいずれ衰えていくのです。

 私たちが日々、新たにされること。それは、心の中、魂が新しくされるといってもよいでしょう。魂の成長は、どれほど肉体的に衰えようとも、知能が衰えていこうとも、新しくされていくのです。私たちの心は、いつになっても、神様の愛、神様のみ言葉に触れることによって新しくされ、生まれ変わるものとされるのです。それは、まさに神様との格闘です。困難の中、何度も神様から離れながらも、また神様に立ち返ることによって、日々新しくされていくのです。

 私たちの魂を新しくする神のみ言葉。そのイエス・キリストによる御言葉は、人間の喜びばかりの言葉ではありません。時に、ファリサイ派の人々が、食卓で、敵意を抱いていったように、私たちにとって、耳障りであり、苦しくなるような言葉の時もあるのです。しかし、イエス・キリストの、そのみ言葉が、私たちを「悔い改め」に、そして「新しい人生」に導くのです。私たちは、イエス・キリストが、私たちのために与えてくださっている、み言葉を受けとり、イエス・キリストと共に、歩み出していきたいと思います。主は、私たちの心を、受け止め、そして導こうとしてくださっているのです。私たちは、これからも、日々、主イエス・キリストの御言葉に、耳を傾け、主の招きに応えて歩んでいきたいと思います。(笠井元)