今日は、召天者追悼記念礼拝です。先に召された家族の人たちを心に覚え、記念することを目指しています。先ほど読みました、聖書の言葉には「心に覚え」「思い起こすこと」の反対の言葉である「忘れた」が繰り返し登場します。直面する現状の厳しさにイスラエルの民は「主なる神はわたしを忘れてしまった」のではないかと嘆いています。また、「女が自分の乳のみ子を忘れるであろうか」と問いかけ、「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしが(主なる神は)あなたを忘れることは決してない」と断言しています。短い節の中に4度も「忘れる」「忘れない」という言葉が登場し、また、それに関連する言葉として「見捨てられた」という言葉も登場しています。また、「憐れむ」「憐れまないであろうか」という言葉も「忘れる」「忘れない」と関連する言葉なのでしょう。皆さんは先に召された、愛する人たちを忘れずに、こうして、集まり、召天者を記念していることは素晴らしいことです。そして、このことは、また、出席されている方々の生き方、生活の仕方を問いかけてもいることでしょう。今朝は、「記念すること」、「忘れないこと」に焦点を当てて聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。
1.主なる神はシオンを見捨てられた
シオンとはイスラエルの中心都市エルサレムが築かれていた丘の名前です。そこに立派な神殿がありました。そこで、エルサレムをシオンと呼んでいるわけです。北九州の小倉には小高い丘があり、そこに「シオン山教会」というバプテスト教会があり、西南女学院のキャンパスが隣接しています。
クリスチャンの方には良く説教にも登場しますのでご存知でしょうが、北イスラエル王国は、紀元前721年北から勃興したアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南ユダ王国はそのアッシリヤを滅ぼしたバビロニア帝国に紀元前586年あるいは867年に滅ぼされてしまいました。日本で言えば「弥生時代」にあたるでしょうか。イスラエルは小さな国で、南西にはエジプト、北東にはメソポタミア(現在のイラク、イラン)の超大国の狭間にありました。ちょうど、日本が中国、ロシア、そして米国という超大国の狭間にあるのと似ています。「シオンは言う。『主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた』」という嘆きの背景には、国を失うという歴史の辛酸をなめたイスラエル人たちの経験、神殿が破壊されたという絶望感、主だった指導者たちがシベリヤ抑留ではないですが、バビロニアに抑留されたという経験があるわけです。事情は異なっていますが、先に召された、愛する人たちと別れたときの悲しみ、嘆きの感情はどこか共通しているのでしょう。特に、今年は鶴見健太郎さん、秦フサヨさんをイエス様の身元に送って間がありません。私たちは死そのものよりも「死の結果である、愛する者たちとの別離」に深い悲しみを覚えるものだと言われています。また、ああすれば良かった、こうすれば良かったと自分を責め、家族を責め、関係がギクシャクすることもあるでしょうし、時間が解決するというか、時間が立つと良い思い出しか残っていないという方もあるでしょう。「シオンは言う。『主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた』」という言葉にこのような想いをひっくるめて感じ取りたいと思います。共感したいものです。特に今年は全世界がコロナウイルスの感染の不安の中にあります。大切な時に共に寄り添うことが許されなかったということは心残りでしょう。「主はわたしを見捨てられたのではないか。わたしの主はわたしを忘れられたのではないか」という嘆きに共感できるのではないでしょうか。
2.主なる神はあなたを忘れない
このようなエルサレム、シオンの嘆きに対し、預言者というか、預言者の口を通して主なる神は「第一人称のわたし」、「わたしはあなたを忘れない」と力強く語り出されます。ここで神と私たちの関係が乳飲み子を持つ母親と幼い子との関係で譬えられています。この世界では一番美しい、心温まる人間関係です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか」。「憐れむ」というヘブライ語は、「ラーハム」と言いますが、「子宮」「母親の胎」のことを「レヘム」と言って同じ語源です。もっとも15節の「自分で産んだ子」は口語訳では「腹の子」となっていますが、「ben bitnăh」(ベン、ビトナ 胎の子)でこの個所では「レヘム」とは違う言葉が用いられてはいます。1節にも「母の胎」にあると言われ、5節でも「母の胎」に言及されていて、この預言者は母親の子宮の中で幼い胎児の時から自分は神から呼ばれ、神の僕とされたと言っています。この世界で最も強固で安全な関係である母親と胎児の関係に触れて、「わたしはあなたを忘れることは決してない」と言われています。ここに信仰の世界が開けてきます。人間は単に人間同士の関係だけではなく、そこに神様が介在して、支えて下さっている。時が経って記憶が薄れて来る。あるいは、認知症になって、だれがだれだか分からなくなることもある。そうなる自分も恐ろしいですが、愛する人が自分を分からなくなるのも不安です。
そこで、わたしたちは、「わたしはあなたを忘れることは決してない」という神の声を聞かねばならないし、聴くことができるのです。教会で、召天者追悼記念礼拝を行うというのはそういう意味なのであろうと思います。主は言われます、「わたしはあなたを忘れることは決してない」。
3.人間の想いを超えて
母親と胎児、幼子との関係は、この世界で最も強固で安全な関係であると申しましたが、聖書はここで留保をつけています。ちょっと待てというのです。「たとえ、女たちが幼い子を忘れようとも」というのです。いろいろな人がいるのです。母親が幼い子を虐待することもあるし、子どもを産んだら良い母親に慣れるわけではありません。はっきり言って親子は別人格でもありますし、母と子の相性もあります。愛情の伝えた方が上手くない親、愛情を感じるアンテナの受信が上手くない子どももいることでしょう。あるとき教会員の女性が訪ねてまいりました。「娘が家出をして帰ってこない」というのです。その時、私は聖書の言葉でなく、人間的な言葉を話してしまいました。「大丈夫、産みの苦しみを通して生んだ子どもだから帰ってくるよ。」そうしましたら、「実はその娘は私が産んだ子どもではないのです」。というのです。娘さんは20歳くらいになっていましたが、彼女の母子関係を知りませんでした。そこで、とっさに「なあに、産みの親より育ての親だというじゃない」「親として苦労して育てたのだから帰ってくるさ」と答えました。でも心が「ひやっと」としました。聖書は人間のいろいろな事情を良く知っている。聖書が語る神は私たちの事情を見て、知っておられる。「たとえ、女たちが忘れようとも」というのです。すべての女性が子どもを産むわけでもないし、母親との関係が良くない人たちも沢山います。しかし、そこで、破綻するわけではないのです。「たとえ、女たちが忘れようとも」わたしがあなたを忘れることは決してない。召天者記念礼拝に出席される方々も高齢化していきます。いつまでこの記念礼拝に出られるだろうかと案じておられる方もおありでしょう。大丈夫です。「たとえ、女たちが忘れようとも」という留保をつけて、人間の弱さを知って、「わたしがあなたを忘れることは決してない」と言われています。この「たとえ、女たちが忘れようとも」という言葉が実にありがたい言葉であることに安心しましょう。
4.見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける
最後に強烈なことが言われています。記憶することを「心に刻みつける」と言いますが、ここでは、主なる神は「あなたをわたしの手のひらに刻みつける」というのです。「カピイーム」というヘブライ語ですから、複数形で両手です。手の甲ではなく、手のひらを意味しています。彫刻刀で手のひらに何かを刻みつけてはたまったものではないですが、神はそのような痛みを通して皆様を記憶しておられるということでしょうか。あるいは両手で抱いたときの手のひらの感触を意味しているのか、水をすくうように両手のひらを上に向けるというようなイメージなのでしょうか、少なくとも神はご自身の痛みを通してまで、わたしたちを記憶して下さるということでしょう。
実際は、歴史の中の権力の興亡の中で、ペルシャ帝国(現在のイランあたりですが)がバビロニアを滅ぼし、宗教政策というか支配政策が変わり、抑留されたイスラエル人が帰還し、エルサレム神殿の再建がなされていくわけです。そうすると、この個所を書き記した第二イザヤは紀元前540年頃の人ということになります。14節の「主はわたしを見捨てられた」という言葉は、主イエスが十字架で叫ばれた「わが神、わが神、なぜ私を見捨てられたのですか」と同じ言葉です。私たちの信仰では、このイエスを父なる神が死者の中からよみがえらせました。神はこの十字架による神と人との断絶、十字架の痛みを通して、文字通り、神の両手のひらにわたしたちを刻み付ける形で愛の業をなし、なし続けておられます。ここに悲しみを超えた喜び、別離が新しい関係を造り出す根拠があります。(松見俊)