先に召された人たちを記念する礼拝です。今日読んでいる聖書の言葉には「記念し」「思い起こすこと」の反対のことば「忘れた」が繰り返し登場します。現状の厳しさにイスラエルの民は「主なる神はわたしを忘れてしまった」のではないかと嘆いています。皆さんは先に召された、愛する人たちを忘れずに、こうして、集まり、召天者を記念しています。今朝は、「記念すること」、「忘れないこと」に焦点を当てて聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。
1.主なる神はシオンを見捨てられた
北イスラエル王国は、紀元前721年北から勃興したアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南ユダ王国はそのアッシリヤを滅ぼしたバビロニア帝国に紀元前586年あるいは867年に滅ぼされました。歴史において辛酸をなめたイスラエル人たちの経験。神殿が破壊され、まさに国を失い、避難民として主だった人々がバビロニアに抑留されたという経験があるわけです。事情は違っても、人は生活する中で、その苦しみや不安、孤独の中で『主なる神はわたしを見捨てられたのではないか。わたしの主はわたしを忘れられたのではないかという嘆きに共感できるのではないでしょうか。
2.主なる神はあなたを忘れない
このようなイスラエルの民の嘆きに対し、預言者の口を通して主なる神は「わたしはあなたを忘れない」と力強く語ります。ここで神と私たちの関係が乳飲み子を持つ母親と幼い子との関係で譬えられています。この世界では一番美しい、心温まる人間関係です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか」。
3.人間の想いを超えて
聖書はここで留保をつけます。「たとえ、女たちが幼い子を忘れようとも」。愛情の伝えた方が上手くない、愛情を感じるアンテナの受信が上手くない親子もあるでしょう。また、私たちは愛する人を認知できないという経験にも出会うのです。「たとえ、女たちが忘れようとも」という留保をつけて、「わたしがあなたを忘れることは決してない」と言われていることは、人間の限界、弱さを弁えた、実にありがたい言葉です。
4.見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける
ここでは、主なる神は「あなたをわたしの手のひらに刻みつける」といいます。棘が刺さっても痛いです。あるいは、手のひらを上に向けて「受ける」というようなことなのでしょうか?神はご自身の痛みを通して私たちを記憶して下さるのです。(松見 俊)