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2020.10.4 「ただ神の恵みによって生きる」(全文) マタイによる福音書19:23-30

1:  金持ちが天の国に入ることは難しい

 イエス様は【はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。】(23-24)と言われました。「金持ちが天の国に入るのは難しい」。これは当時の考え方とはまったく逆の考え方でした。

 イエス様の時代は、富は神様の祝福であり、それはその人の正しい行いに対する神様の報いだと考えられていました。同時に、貧困である者は、神様の祝福を受けることができない、何か悪いことをした者だと考えられていたのです。これは善いことをすれば、善いことが起こり、悪いことをすれば、悪いことが起こるという、いわゆる「因果応報」という考えです。「努力は報われる」と考え、何かに一生懸命取り組むことは大切なことです。その努力が結果につながらなかったとしても、努力をすることは意味のあることですし、善いことをすることが悪いわけでもありません。むしろ何をしても意味がない、どうせ何をしても、自分には何も変えることができない運命のようなものがあるとして、人生を投げ出してしまうほうが問題だと思うのです。

ただ、この考え方の問題は、善いことが起こった場合は、その人が善いことをしていて、悪いことが起こったときに、その責任は、その人の生き方にあるとしてしまうことです。人間は、自分ではどうすることもできない困難や苦しみに出会うことがあるのです。どんなに努力をしても、どれほど正しいことをしても、それが「必ず」善いことにつながるわけではありません。また、本来、完全に正しい人もいなければ、すべてが間違って生きている人というのも、そうはいないはずなのです。しかし、この「因果応報」の考え方では、その結果だけを見て、「あなたは正しい人だ」「あなたは罪人だ」と、勝手に振り分けてしまうのです。

イエス様は【人間にできることではないが、神には何でもできる】(26)。つまり、ただ神様の一方的な恵みによって、天の国、永遠の恵みが与えられていると教えているのです。私たちは、ただ神様の恵みによって生かされているのです。そのことを受け入れる時、本当の喜びを得るのでしょう。

 

そして、イエス様は【金持ちが天の国に入るのは難しい】(23)と言われました。お金を持っている者は、自分の持つ力である程度のことができてしまうのです。だからこそ、自分の力で幸せを得ることができると思ってしまうのです。これはお金だけに限ったことだけではありません。この世における権威や名誉、富みや自分の能力を持てば持つほど、私たちは神様ではなく、自分の持つ、そのようなものにより頼んで生きるようになってしまうのです。つまり、神様の恵みによって生かされているということを忘れ、神様により頼む必要性を感じなくなってしまうのです。それはある意味、天の国からどんどんと遠くに行ってしまっているということができるのです。

 

2:  何をすれば救いを得るのか

今日の箇所の前、16節から金持ちの青年のお話があります。この青年はイエス様に【先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。】(16)と尋ねたのです。この青年は、律法を忠実に守ってきた模範的なユダヤ人でした。この青年はイエス様にこれ以上に何かをすることではなく「あなたはもう充分である、あなたは天の国、永遠の命を得ることが決定された」と言われたかったのではないかと思うのです。しかしイエス様は【もし完全になりたいならば、持ち物を売り払い貧しい人々に施しなさい】(21)と言われました。この言葉に青年は悲しみながら立ち去ったのです。この青年は自分の財産を手放すことはできなかった。つまり、どれほど善いことをしていたとしても、その実は、神様により頼むのではなく、その富を土台として生きていたということです。

聖書が教える救いの恵み。それは、人間が何かをすることによって与えられるものではありません。たとえペトロのように、イエス様に忠実に従ったからといって、その行為によって救いを得るのではないのです。

 

3:  神の恩恵によってのみ救いを得る

 イエス様は、【「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(19:23-24)と言われました。「らくだが針の穴を通ること」、それはどう考えても不可能なことです。らくだはその地方の最大の動物でした。そして針の穴というのは、穴の中でも一番小さな穴を意味します。一番大きな動物が、一番小さな穴を通ること、つまりどんなに頑張ってもそれは不可能だということです。

 人間は何をしたら救われるのか。聖書が教える答えは、人間が何をしても、人間の行為によって救われることはないのです。私たちは、ただ天地を造られた神、世界の創造主であり、今も命を守り養って下さっている神様の、一方的な恵みとして救いを得るのです。神様がだれかを見捨てるということはありません。それは善い人であっても、正しい人であったとしても、またはどれほど悪いことばかりしている人、間違った道を歩いていたとしても、または病気や事故によって体が不自由であったとしても、何があっても・・・神様はその人を愛しておられるのです。

 

神様は自らの自由な選びのうちに、人間を愛することを決断されました。ただ、それは全知全能である神様が、魔法のように、パっと一瞬で人間を救ったのではありません。そこには神様の意志、決断と行為があるのです。すなわち、御子イエス・キリストの十字架による死という苦しみです。このイエス・キリストの死をもって、神様は自らが苦しまれ、痛みを負われ、その苦しみを受け取ることによって、私たちすべての人間が愛される道を開かれたのでした。

神様による救い。それはどれほど自分が弱くても、何もできなくても、イエス・キリストによって神様が私たちを愛し、共に生きてくださることにあるのです。神様はその主権をもって、私たち人間を愛し、慈しみ、どのような時にあったとしても、共に生きていてくださる道、人間を愛する道を選び取られたのです。

 

4:  仕える者となる

 イエス様は言われました。 【わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。】(28)神様はすべての人間を愛されています。ここでは「家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑」を捨てる者は・・・とあるので、すべてを捨てなければいけないと読み違えてしまうこともあります。しかし、聖書が教えることはそのようなことではありません。すべてを捨てること。それは、それらがすべて神様の恵みとして与えられているものであることを受け入れるということです。皆さんは、自分の持っているすべてのものが、神様からの恵みとして受け入れているでしょうか。

 

【新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。】(28)これが主イエスに従うペトロに与えられるとされるものです。ここで言う「イスラエルの十二部族」とは「神の民」、ここではイエス・キリストの福音による「新しい神の民」「すべての国の民」を意味します。この言葉が教えることは、「新しい神の民」を「支配する権威」を与えられるということではありません。むしろイエス・キリストがすべての人間に仕える者として生きたように、「新しい神の民・すべての民」に仕える者となることを教えられているのです。

神様の救いの恵みを得る時、私たちは本当の生きる意味を見出すのです。それは権威や名声や富を求めて生きることから解放され、ただ神の恵みのうちに仕える者とされるということです。すべての者が愛されている。すべての人間に救いの道は開かれた。私たちはその恵みと愛を受け取りましょう。そしてそのとき、私たちの生きる生き方は変えられるでしょう。(笠井元)