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2020.10.11 「聖霊によって実を結ぶ」(全文) ガラテヤの信徒への手紙5:16-26

今日の箇所ではまず、【霊の導きに従って歩みなさい】(16)と言います。「霊の導き」。私たちは聖霊に導かれてイエス・キリストの愛の実を結ぶのです。今年の私たちの教会の主題聖句は【わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。】(Ⅰコリント3:6)とあります。聖霊なる神は、私たちが成長し「愛の実」を結ぶために、導いてくださるのです。このことを覚えて、今日の箇所を読んでいきたいと思います。

 

1:  神様に創造された者

 今日の箇所は、霊と肉とが対比したものとして記されています。ここでは「肉の業を行う者は、神の国を受け継ぐことはできない」とし、「霊によって愛の実を結ぶ」とあります。これだけを読むと、私たちは、「霊」は素晴らしいもので、「肉」は悪いものだと受け取ってしまうかもしれません。そのため、まず、神様から与えられている「この世界」「わたしたち人間」「肉」の素晴らしさを確認したいと思います。

聖書では、「神様がこの世界を創造されたとき、それは『極めて良かった』と言われた」とあるのです。つまり、創造主なる神様が造られた、この世界、そして人間は「極めて良い」存在なのです。それはもちろん、私たち人間の肉体もです。私たち人間の肉体、そして知恵、力、感性など、そのすべては神様に与えられた賜物であり、神様からの賜物は素晴らしい恵みとして与えられているのです。

私は昔から、自分の短所を考えると、沢山出てくるのですが、自分の長所というとなかなか出てきません。先日も、自己紹介を考える時があったのですが、自分の特技を考えたのですが、なかなか出てきませんでした。皆さんはいかがでしょうか。私たちには、それぞれ良いところも与えられていれば、もちろん欠点もあるのです。しかし、そのすべてが、神様の目から見れば素晴らしいものなのです。自分の弱さや欠点を見る時、または他者の欠点を見る中で、落ち込んだり、イライラすることもありますが、私たちは、まず、その人間の弱さからも、神様の愛を見ることを覚えたいと思うのです。私たちは、まず神様から生かされていることを喜び、また様々な賜物を頂いていることを喜んで受け取りたいと思います。そして自分の力や知恵、肉体、そのすべてのものをもって神様を表して生きていきたいと思うのです。それが神様から与えられた人間の「極めて良い」とされる存在です。

人間が、自分の力を出し切って、一日一日を過ごす時に、そこに、喜びもあれば、苦しみもあります。嬉しさや感謝の思いもあれば、痛みや悲しみも生まれます。そしてもちろん愛も、平和も生まれることがあれば、そこに間違いもあり、時にお互いを傷つけあってしまうこともあるでしょう。しかし、神様は、私たち人間が神様の前に、精いっぱい生きることを喜ばれるのです。私たちが神様から頂いた「肉として」神様の前に、精いっぱい生きることは素晴らしいことなのです。

 

2:  肉によって生きること

今日の箇所では、「肉の業を行う者は、神の国を受け継ぐことはできない」と言います。ここで言われている「肉の業」とは、そのように「神様から頂いた肉を喜んで生きること」ではないのです。「肉の業」。それは、「肉の思いに支配され」生きることを意味します。

ガラテヤの信徒への手紙では、律法に囚われて生きることではなく、信仰によって生きることを教えています。著者パウロは、「律法に囚われて生きる」こと、つまり人間の行為によって救いを得るという考えから、解放され、神様に対する信仰によって生きることを教えているのです。「律法に囚われている」とは、「律法を行うこと、人間の行いによって救いを得る」ということです。それは、自分の力、自分の能力、自分の命を、神様からいただいたものではなく、自分自身のものであり、自分自身のためだけにあるものだとして、「肉の業のために生きる者」とされていくのです。そして、この生き方は、まさに雪だるまのように、どんどんどんどんと、この自分の強さ、自分の行為の正しさを手に入れていこうとし、そこには息苦しさが生まれ、生きていくことが苦しく、まさに囚われた人生となってしまうのです。

肉の業はこのように記されています。【肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。】(ガラテヤ5:19-21)これらは、私たちが自分の神様を忘れ、自分を神様とした時に行う行為です。肉によって生きることは、自分が神様となろうとすることです。肉の業は、自分自身を自分のものとして、自分勝手に使っていくときに生まれてしまうのです。

 

3:  愛を受け取る者

それに対して、「霊の実」は「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」とされます。みなさんは、どのような実を結ぶ者とされていきたいでしょうか。「肉の業」として実を結ぶのではなく、「霊の実」を結ぶことを神様は喜ばれます。聖書は、「律法に囚われるのではなく、信仰によって生きる」ことを教えています。それは神様の前にへりくだり、イエス・キリストの十字架による恵みを受け入れるところから始まります。これら「霊の実」は、自分一人で結ぶ実ではありません。隣にいる人、その人間との関係において結ぶことができる実です。自分一人では、「愛」を作り出すことはできません。神様は、自らとイエス・キリストとの関係をもって、「愛」を示されました。そしてその関係を結ぶ方が聖霊なのです。私たちは、この聖霊によって、隣人との関係を結ばれる中で、「霊の実」を頂いていくのです。

私たち人間が造りだしている社会においては、この隣の人との関係を「愛」のためではなく、「自分の利益のため」に結ぼうとしてしまっている。その人間の能力、社会的地位や権威、財産や名誉などによって、立場が決められ、一人ひとりが持っている力によって、立場に上下ができてしまいます。そして時には、隣の人間の存在を否定し、「あなたは必要のない人間である」とさえ考えてしまうのです。

私たちすべての人間は、どんな者も神様によって愛されて受け入れられているのです。神様にとって、すべての者が大切な存在なのです。わたしたちは、神様の前にあって、お互いに、「必要のない者」は一人もいないのです。「霊の実」。それはわたしたち自身が自分の力によって得るものではありません。イエス・キリストが私たち、すべての人間の内に来て下さって、与えてくださる霊を受け入れていくときに結ぶ実なのです。

 

4:  霊の実

【霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。】(ガラテヤ5:22-26

私たちに与えられる霊の実は、「愛」「喜び」「平和」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」です。私たちは、隣人とのかかわりの中で、何を生み出すことができるでしょうか。聖霊の導く、霊の実は「愛」を生み出し、「喜び」「平和」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」を生み出します。主イエス・キリストは「神を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。私たちは、神様を愛し、そして愛されているといううちに、隣人を愛する愛をいた出し手、霊の実を受け取っていきたいと思います。神様は、イエス・キリストをこの世に送り、私たち人間との関係を結ぶ道を、今も歩まれているのです。私たちは、この神様の導き、聖霊の導きによって、「互いに挑み合ったり、妬み合ったりする」のではなく、隣人と共に生きるための、霊の実をいただき、育てていただき、成長させていただきたいと思うのです。私たちは、ただただ神様の前に、へりくだり、イエス・キリストが共にいてくださることを受けて、その愛によって聖霊の実を結ぶ者と変えられていきたいと思います。(笠井元)