「神の憐みによって開かれた目」
2020.11.1 マタイによる福音書20:29-34
1: イエスの憐み
今日の箇所では、イエス様による、二人の盲人の癒しの業が記されています。今日の記事と同じような記事が、マタイ9章27節からの箇所にあります。新共同訳聖書では小見出しがつけられていますが、今日の箇所の小見出しは「二人の盲人をいやす」とあり、また、9章の小見出しもまったく同じ「二人の盲人をいやす」となっていて、確かにその内容はとても似ているものとなっているのです。ただ、その中でいくつか違うところもあります。そして、この違いから、今日の記事が伝えたいことが見えてくるのでもあります。
9章で強調されているのは、二人の盲人の信仰です。9章で、イエス様は「わたしにできると信じるのか」(9:28)と問われ、その問いに、二人は「はい、主よ」(9:28)と答えました。そしてイエス様が「あなたがたの信じているとおりになるように」(9:29)と命じられることによって、二人の目が開かれたのです。9章での二人の盲人は、イエス様を信じたのです。それに対して、今日の箇所においては、二人の盲人が「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶ中で、イエス様が、「深く憐れんで、その目に触れられた」のです。このイエス様の憐みによって、目が開かれたのです。今日の箇所において教えられるのは、このイエス・キリストの憐みの心、憐みの業なのです。
神様の憐み。それは神様からの一方的な愛を示しています。私たちが何かをしたからではなく、ただ、神様が人間を憐れまれた。そのために人間は救いを得ることが赦されたのです。私たちはこの神様の憐みのうちに生かされているのです。
2: 盲人の求めた憐み
二人の盲人は、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(20:30)と叫びました。この二人が求めた憐み。それは、旧約聖書においては、他に何も頼るものが無くなった者、もはや神様に頼るしかない苦しみのなかにある者の祈り、もはや自分ではどうすることもできない者の祈り、そのような祈りを表す言葉でした。二人にはもはや何もなかった。もはや神様に「憐れんでください」と叫ぶことしかできなかったのです。この叫びは、まさにその人の命を懸けた、人生の最後の叫びなのです。二人は力の限り、すべてをかけて「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。
二人の盲人は「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(20:30)と叫びました。この叫びに対して、イエス様は「何をしてほしいのか」と言われました。普通に考えるならば、二人の盲人がするのは物乞いという行為であり、人々に求めるものは、「お金」や「食べ物」をめぐんでもらうことで、それは一時的な救いの出来事です。しかし、二人はここでは、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言うのです。ここで二人が求めたのは「目を開けてほしい」ということでした。ここでの「目」とは肉体的、視力を意味する言葉につながる言葉でした。つまり、何かをめぐんでもらって一時的に満たされることではなく、これから生きていくための力、この社会において人間として認められ、その一員として生きていくための力を求めたのでした。このとき、二人は、一時的な救いではなく、その人生の救いを求めたのです。しかし、それはあくまでも、肉体的、この世的な救いです。それは、ある意味「お金」や「食べ物」をめぐんでもらうことと同じ線上にある事柄と言えるでしょう。二人の盲人が求めたのはそのような肉体的救いであり、この世において自分が豊かに生きていくための力でした。
私たちも、困難や苦しみに出会う中、もはや神様に求めるしかないという現実に生きる時に、求めるのは、その苦しみからの解放だと思うのです。「神様、どうにかしてください」「この苦しみの状況を打破する何かを与えてください」と叫ぶのです。しかし、それはあくまでも、その状況が変えられること、苦しい思いからの解放を求めているのではないでしょうか。
3: イエスの憐み~開かれた目
この叫びを聞かれた、イエス様は、二人を深く憐れまれたのです。二人が求めた憐み。それは確かに命をかけた、できる限りの叫びでした。しかし、イエス・キリストの憐みはそれ以上の憐み、「深い深い憐み」だったのです。この「深い憐み」という言葉は、日本語でいえば「断腸の思い」という言葉であり、自分自身の体、内臓が切り刻まれるほどの痛切な心の動き、慈しみの心を意味しています。
皆さんは、神様に「何をしてほしいのか」と言われたときに、何を願うでしょうか。いろいろなことが頭に浮かぶかもしれません。先日の祈祷会ではちょうど「人間の願いと神の願い」という題のテキストから学びました。その中で、「人間の願いというものは不思議なもので、本当には何を願ったらよいのか、とくと考えてみると、みな曖昧になり、解らなくなってくるものではないでしょうか。・・・人の願いはよく解らないところがあり、人間は、自分の本当の願いを実は知らないでいる・・・聖書の神様は、悩みの時にはわたしを呼べと求めておられるということで、それは神様の願いがそこにある」(『中断される人生』、近藤勝彦著、p.114、118)とありました。皆さんは今、何を求めているでしょうか。
イエス様は、この二人の目に触れられ、目を開かれました。ここに記されている、イエス様が触れられた「目」という言葉は、二人が求めた、肉体的な目だけではなく、心の目につながる言葉を意味しています。イエス様が憐まれ、開かれたのは、肉体的な目と同時に、心の目を開かれたのでした。
イエス様は二人の求める救いを超えた救いを下さったのです。イエス・キリストは自らが痛まれ、苦しまれて、人間が求める憐みを超えて憐れまれ、実際に求める救いを超えて救ってくださったのです。このイエス様の憐みを表したのが、十字架の出来事です。イエス・キリストは、深く憐れまれた。そして体が切り刻まれるほどに慈しまれた。そしてそれは、実際にイエス・キリストが十字架において、苦しみ、痛み、死なれたことによって成し遂げられたのです。二人の目は、イエス・キリストが命を懸けて、十字架の上で死ぬことによって、開かれたのです。
4: イエスに従う
イエス様に目を開かれた二人は、イエス・キリストに従い歩きだしたのです。イエス様は16章において、このように言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24-25) 二人がイエス・キリストに従ったということ、それは自分を捨て、自分の十字架を背負って生き始めたということです。二人はここに本当の命を得たのです。
私たちは今、何を求めていくのでしょうか。喜び、豊かな人生を生きるために、何を必要としているのでしょうか。先日の祈祷会での結論は、詩編50編15節の御言葉にありました。「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩編50:15)
神様は「困難、苦難の時、わたしを呼びなさい」と言われるのです。そして、神の救いを受ける時、あなたは「神の栄光を輝かす」者となると言われているのです。これが神の救いを受けた者の生き方です。
神様は、一方的な憐みの出来事として、イエス・キリストの十字架を示され、私たちに愛を与えられているのです。私たちは神様に愛されているのです。 私たちは、このイエス・キリストの十字架に目をむけることによって、目を開かれたいと思うのです。そしてイエス・キリストの十字架に従い生きていきましょう。そこに本当の命、本当の救いを得ることができるのです。(笠井元)