1. 無理解による暴力
エルサレムでヤコブは、パウロが「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」とユダヤの律法から離れるように教えているとされていることを教えます。パウロは律法を守っていることを表すために清めの行為を行いました。しかし、このパウロの行為はむしろユダヤ人に誤解を与えることになったのです。ユダヤ人は神殿内にいるパウロを見て、神殿内に異邦人を連れ込んでいると勘違いをしたのでした。
ユダヤ人は群衆を扇動してパウロを殴り殺そうとしました。群衆は、パウロが本当にどのような人であり、何をしたのかということは確認しませんでした。このことは無理解による暴力と言うことができるのです。現代は情報が溢れています。そしてその情報が正しいか、間違っているのかを考えずに他者に暴力を向けているのです。
2. 信じる行為に囚われる
誤解によってパウロは暴力を受けることになりました。ただ、実際にパウロは「イエス・キリストの十字架と復活を信じる者であれば割礼は必要ない」と主張したのでした。これはユダヤ人からすれば、自分たちの守ってきた救いの伝統的儀式である割礼を無視したとも感じたでしょう。
バプテストは浸礼を大切にします。滴礼、灌水礼をどのように考えるのでしょうか。1979年の信仰宣言では「幼児洗礼を否定する」とされていましたが、現代では「否定」ではなく「避ける」という言葉が使われています。
自分たちの信じる信仰。大切にする行為。それらを持つことがいけないのではないのだと思います。ただ私たちは、その教え、その行為を通して、神の愛を思い起こすのであり、それに囚われるのではないのです。
3. パウロの逮捕による福音伝道
暴動を聞きつけたローマの千人隊長はすぐに、その場に駆け付けました。そしてパウロを捕らえ、二本の鎖で縛ったのです。この姿は、ローマ帝国に殺されていくイエス・キリストを表すとも、この後の弁明の姿からステファノの姿を見ることができるともされます。どちらにしても、この二人の進んだ道にあるのは「死」です。このパウロの姿からは「死」に向かうとしても福音伝道のために神様に従う姿を見るのです。
このあと37節からパウロの弁明が行われます。ただ、その内容は「わたしは律法を守っている」という自分の弁明というよりは、「自分の回心と使命」を語る内容となっています。
パウロは、ユダヤの人々に暴力を受けてローマに捕らえられた。そのうえでなお、自キリストを証しして福音を宣べ伝えたのでした。(笠井元)