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2020.11.15 「キリストにある豊かな命を育む」(全文) ヨハネによる福音書10:7-11

1、命への問い

今日は年に一度の子ども祝福式を迎えています。神によって与えられた小さな命の尊さを覚え、子どもを見守り、その命に神の祝福があるようにと共に祈り礼拝を捧げたいと思います。ここにいる私たちは全員子どもでなくても、誰もが子ども時代を経験したことがあります。皆さんはどのような子ども時代をお過ごしになったでしょうか。私が幼稚園に通い始めた頃、自分の命の不思議さを感じるようになり、一つの質問を母に繰り返し聞いた覚えがあります。「お母さん、私はどこから来たのか」と。これに対して、母が「雯ちゃんは山の子どもだよ。ある日私はお父さんと山に登り、そこであなたを掘り出したのよ」といつもこのように答えます。私と同じ年代に生まれた中国人の子どもたちはこのように親に騙されて育った人が大勢います。確かに「命はどこから来たのか」という質問に答えることは難しいです。たとえ説明できたとしても、果たして子どもは理解できるだろうと疑問に思う人は、ついにユーモアたっぷりの「うそ」をついてしまうのです。

 

2、命という奇跡

子どもにはいくつかの発達段階があり、それらの段階を経てみんな成長していくのですが、成人するまでは、四つの発達段階があると言われています。すなわち、幼児期、学童期、青年前期と青年後期です。発達には個人差もありますが、それぞれの段階に明らかな成長姿が見られます。乳幼児期、0歳~2歳頃の子どもの特徴として、言語というツールより、脳に入った刺激に単純に反応すると言われています。親をはじめ、周りの人や物、環境との関わりの中で、自分なりに感じたり、反応したりして、認知や情緒などを発達させていきます。乳幼児期には更に前期と後期があるのですが、前期0歳から23歳前後までは、自分で立ったり、座ったり、歩いたりするという自律性が発達し、後期の56歳までは、遊びごっこなどもできるようになり、「自分で何かをしよう」「一緒に遊ぼう」という自発性が発達します。次に学童期と青年期がありますが、この段階に入ってくると、学校での学びを始めていきます。そのを学び重ねていくうちに、数や量の概念への理解が可能になったり、具体的な事物に対して考えたりして、抽象的な思考まで持つことが可能となります。人間はこのような過程を経て、主体的な責任を持つようになり、社会の一員として自覚の行動を持つ大人へと成長していきます。では、皆さん、なぜ人間の命は尊いのでしょうか。命の尊さの証拠は一体どこにあるのでしょうか。人間がきちんとこのような発達段階を経て、しっかりした大人として成長できるからでしょうか。それとも、社会や会社、周りの誰かの役に立つ有能・有用な人間になれるからしょうか。もちろん、人間は自分自身が成長し、それによって誰かの役に立つ仕事ができる、周りに認めてもらえる、確かにそれができると本当に素晴らしいです。しかし、これだけでは、命が尊いという証拠になれるとは到底思えません。命の尊さを認識し、愛し愛されて生きるためには、命そのものが尊い、すなわち、発達段階を踏む前、何もできない、弱き、小さな命が尊いという認識を私たちが先に持たなければなりません。

 命の誕生とその神秘について、ある解剖学の先生が次のように話します。出産間近の胎内の赤ちゃんはすっかり体の仕組みが出来上がり、一人の人間として既に立派に生きていますが、不思議なことにまだ空気を呼吸していません。子宮を満たす羊水の中に浮かんでおり、必要な酸素や養分は臍の緒を通してお母さんから分けてもらっています。空気を呼吸するための肺は、赤ちゃんの胸の中でしぼんだ風船のように縮こまり、出番が来るのを待っています。そして心臓は、中央の壁に大きな穴が空いて左右の部屋が直接繋がり、全身から戻ってきた血液が肺に流れ込まない仕組みになっているのです。呼吸という角度から見ると、誕生直前の赤ちゃんは、水の中で生活する魚類の段階にあるとも言えそうです。そして時が満ち、いよいよ分娩が始まります。長い時間の末にとうとう赤ちゃんが外の世界に触れたその瞬間、体内で驚くべきことが起こります。一瞬にして心臓の壁の穴が塞がり、血管のバイパスが閉じて、全身の血液が力強く肺の血管へ流れ込んでいきます。すると、畳まれた状態で待機していた肺が血液の圧力でみるみる広がり、胸をいっぱいに満たして最初の息が、産声なのです。

 この解剖学の先生は、わかりやすく人間の誕生を説明してくださったので、「なるほど、自分はこんな風に産まれてきたんだ」と理解し、納得しました。またそれと同時に、命の誕生の仕組みは驚くべき神秘であるとも感じました。複雑で神秘的な命の誕生の過程については、子どもを産むお母さんでさえよく分からないことも当然あるでしょう。聖書には、「神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」(創2:7)とあります。命の誕生について、その仕組みについて最も知っているのは、その命の創り主である神様です。つまり子どもの命の所有者は、その子のお母さんでもお父さんでもなく、神様なのです。子どもは神様からの授かり物なのです。子どもの親をはじめ、社会全体、周りの人たちには、その子の命を尊び、大切に守り、育む義務と責任が与えられています。私たちは、その責任と義務を果たしているのでしょうか。

 

3、家族を求めて

 今、私たちが生活している社会を見渡すと、親が子どもを見捨てるなど、様々な痛ましい事件が起きています。ついにこの間、昨年東京のある公園に出産したばかりの乳児を遺棄した疑いで元女子大生が逮捕されたというニュースを聞きました。母親のKさんは、昨年11月就職活動で東京を訪れた際に出産し、その子が産声をあげたため、Kさんはティッシュを口に詰め込み、首を絞めて殺害しました。司法解剖によると、その子の肺に空気が残り、気道を塞がれたことによる窒息死と判明しました。警察の調査に対してKさんは、「子どもがいたら、夢が叶わないと思った」と供述しています。Kさんにとって、子どもの命より、自分の命、自分の夢のほうが大切だと言っています。人間は自分の命を大切にして、命を守ろうとする姿勢が大事ですが、そのために、自分の子どもや他者の命を犠牲にしてもいいと考え方は、歪んだものとしか思えません。私は2016年広島にいた頃、児童虐待の社会問題を描く2本のドラマを見ました。このようなテーマがドラマに取り上げられたのは、児童虐待の問題がすでに深刻化していると社会に警告したいからではないかと思います。その後の数年、フィクションが現実となり、子どもが虐待により命を奪われたというニュースを目にするたび、心が痛み、大人としての責任を厳しく問われているように感じました。そしてさらに、家族とは何か、ということを考えずにはいられませんでした。

 先日、神学部同期の仲間とZoom会議に参加した時、「特別養子縁組」の制度が話題になりました。何人かの友達は、里親になろうと、つまり、血縁関係のない子どもを実際に育てたいということを考えています。特別養子縁組は、虐待の問題も含めますが、何らかの事情で実の親と一緒に暮らせない子どもとの間で養子縁組することで、子どもの安全を守り育てるための制度です。血の繋がりを軽視するわけではありませんが、血の繋がらない夫婦が家族となっているように、血縁だけを頼らなくだって、信頼に満ちた家族が築けるのだと思います。

 

4、良い羊飼いに従う

 

 今日の聖書箇所、イエス様が譬えを用いて話されます。そこで人間のことは羊として譬えられています。羊には、群があり、泊まるお家がありますが、イエス様は、ご自身のことを門として譬えます。そしてさらに、自分が羊飼い、いや、良い羊飼いだと言います。良い羊飼いは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために、自分の命を捨ててもいいと思うからです。実際にイエス様は、ご自分の命を十字架で捨てるまで、人間の命を愛し、守り抜き、豊かにしてくださいました。その後、イエス様はこう言います。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」私たちは、この良い羊飼いに養われて、良い羊飼いと共に、命を探し愛し、守り育み、主にある群れ、良い群れを作っていきましょう。(劉雯竹)