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2020.11.22 「柔和な方に従う」(全文) マタイによる福音書21:1-11

1:  柔和な王の入城

 イエス様はエルサレムの近く、ベトファゲというところに来たときに、二人の弟子を使いに出し、子ろばを準備させました。そしてその子ろばに乗って、イエス様はエルサレムに入城されたのです。エルサレムに入っていくときに、大勢の群衆が、イエス様に「ダビデの子にホサナ。」と叫んだのです。この箇所の並行記事となる、マルコによる福音書やルカによる福音書では、子ろばを準備するにあたって、実際に、出かけて行った弟子たちが、つないであるろばをほどくときに、人々に「なぜほどくのか」と言われ、「主がお入り用なのです」と答えたという、会話をする場面が、詳細に記されています。それに比べるとマタイでは、イエス様が「子ろばを引いてきなさい。誰かが何かを言ったら『主がお入り用なのです』と答えなさい」と記されているのみで、実際に弟子たちが出かけていったときに、どのようなことがあったのかは記されていません。 つまり、マタイによる福音書においては、そのことは中心ではないということです。今日の箇所においての中心は、5節からの預言の言葉「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(21:5)とある、預言の言葉が実現した出来事として、実際にイエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城されたということです。  神の子イエス様が、神の都とされるエルサレムに入城されたのです。そのとき、このイエス様の入城を、預言者は「柔和な方が来られた」と言い、そしてその象徴として、イエス様は「子ろばに乗って」入城されたのでした。

 

2:  イエスに何を求めているのか

 この柔和な方、子ろばに乗ったイエス様を、群衆は喜びの叫びをもって迎えました。群衆は、自分の服を道に敷き、または木の枝を敷いて、まさに王を迎える喜びをもって、イエス様を迎えたのです。群衆は「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(21:9)と叫びました。「ダビデの子」。それはイスラエルにおいて「救い主」を意味していました。ダビデとは、イスラエル王国の王の中の王であり、英雄でした。人々は、このダビデの末裔(まつえい)に、いずれ、イスラエルの民を救い出す救い主が現れると信じていたのです。つまり「ダビデの子」とは「救い主」を意味し、群衆はイエス様に向かって「あなたが救い主です。「ホサナ」、「私たちを救い出してください。」と叫んだのです。

 しかし、このイエス様を「ダビデの子」と叫んでいた群衆が、この後マタイ27章において「この男を十字架につけろ」と叫んでいくこととなるのです。(マタイ27:22-23)熱狂的にイエス様を迎え入れ、喜び叫んでいた群衆でしたが10節において「これはどういう人だ」と問われると、群衆は「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えたのでした。群衆は、「ダビデの子、主の名によって来られる方」「いと高き方」「救い主」と叫びながらも、「ガリラヤのナザレから出た預言者の一人」とも言っているのです。つまり、イエス様がどのような方かということを正確には理解してはいなかった。ここでは、なんとなく、よくわからないが、救い主のような人が来たと熱狂的に騒いでいた群衆の姿を見るのです。

 これはイエス様の弟子たちにも同じことが言えるのかもしれません。イエス様の一番弟子、ペトロはマタイ16章において「あなたはメシア、生ける神の子です」とイエスを救い主と告白しました。そして、十字架の前では、【26:33 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」】【26:35「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」】(マタイ26:33、25)とも言ったのです。しかし、そのあと、ペトロもイエス様の十字架の時には、最後までついていくことはできず、イエス様のことを「知らない」と言い、逃げ出したのでした。

 この時、群衆、そしてペトロを代表する弟子たちは、イエス様に何を求めていたのでしょうか。何を求めて、喜び叫び、迎え入れたのでしょうか。イエス様の何を信じて従ったのでしょうか。そして、私たちは、今、イエス様に何を求めているのでしょうか。

 

3:  柔和な方による救い

 今日の箇所では、イエス様のことを「柔和な方」と呼んでいます。この「柔和」とは、70人訳聖書では、「痛めつけられる」、「みじめである」という意味の言葉が使われています。今日の箇所5節からの預言の言葉は、ゼカリヤ書の引用とされていますので、一度そちらを読んでみたいと思います。【娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。】(ゼカリヤ書9:9-10

 ここでは「柔和」という言葉が「高ぶることない」となっています。柔和とは、「高ぶることなく」「低くされる」「敬虔な」という意味、そして「痛めつけられる」「みじめである」「傷つけられる者」という意味があります。柔和な王。それは低くされた者。傷つけられ、痛めつけられ者。やがて、顔に唾をかけられ、こぶしで殴られ、平手打ちをされ、そして最終的に、十字架において殺された方。この十字架の上でみじめに死んでいったイエス・キリストこそが柔和な王、救い主なのです。

イエス・キリストはエルサレムに「柔和な王」として入城されました。それは十字架という「死」に向かった道です。イエス・キリストは真の王様として、高ぶることなく、力を持って王となるのでもなく、「柔和な者」としてこの世に来られ、「軍馬を断ち、戦いの弓を断ち、平和を告げ」られたのです。この主イエス・キリストの十字架が、私たちに平和を告げる、私たちに本当の救いの出来事を与えてくださるのです。イエス・キリストは、「高ぶることなく」「低くされた者」「痛めつけられ」「傷つけられた者」として、「柔和な王」として、この世界に、本当の救いを表されたのです。

 

4:  主の言葉に従う

 私たちは、この「柔和な王」、イエス・キリストによる救いを求めていきたいと思うのです。今日の箇所の前半では、何も言わずにイエス様の言葉に従った二人の弟子がいました。この二人の弟子は、「なぜろばなのだろうか・・・」とか、「本当にろばを提供してくれる人がいるのだろうか」と疑問を持ったかもしれません。しかし、弟子たちは、そのような疑問や不安を持ちながらも、ただイエス・キリストの言葉に従ったのです。私たちは、この二人の弟子たちのように、ただ、柔和の王、十字架のイエス・キリストに従っていきたいと思うのです。

 ただ従うとは、何も言わず、何も考えずに従うということではありません。そのように考えることをやめてしまうことは、理性を麻痺させるカルト宗教になってしまうことになります。私たちはイエス・キリストに何も言わず、何も考えずに従うのではありません、「ただ従う」ということは、むしろ、考えて、悩み、不安や疑問を持ちながらも、それでも従う道を選び取るということです。イエス様は、そのように不安を抱えながらも従う者の隣を、歩んでくださいます。それができるのは、イエス・キリストが、一番低いところまできてくださり、苦しみ、痛みを受けられた、柔和な方だからこそできるのです。そのような不安の中を歩む私たちを、柔和な方、十字架のイエス・キリストだからこそ、倒れそうな私たちを守り、下から支え、励まし、歩ませてくださるのです。

 キリストに従うその道は、十字架の道、柔和な王に従う道です。私たちは、ただひたすら、イエス・キリストの言葉を受け取り、その十字架のキリストに従って、高ぶることなく、神様に仕える者として歩んでいきたいと思います。主イエス・キリストは自ら十字架の道を歩まれました。そしてすべての人間を支える者となられ、救いの道を開かれたのです。今、私たちがキリストに求めるもの、救いの道とは、まさにこのイエス・キリストに従い歩みだすことなのです。(笠井元)