1: 知ることと、分かち合うこと
今日の礼拝から、世界祈祷週間となります。世界祈祷週間は神様が与えてくださったイエス・キリストによる福音の恵みを、世界のすべての人々と分かち合うために、共に祈る時として与えられています。今、日本バプテスト連盟では、インドネシアに、野口日宇満先生、野口佳奈先生を、カンボジアには嶋田和幸先生、嶋田薫先生を、宣教師として送りだしています。また、アジア・ミッション・コーディネーターとして、シンガポールに伊藤世里江先生を、そして国際ミッション・ボランティアとして、佐々木和之先生をルワンダへと送り出しています。イエス・キリストの福音とは、こちらから何かを一方的に何かを押し付けるものではなく、お互いを知り、共に祈り、支え合う中で、そこに、イエス・キリストが主として働いてくださる愛の出来事です。そして、そのために世界に出ていき、働いて下さっているのが、私たちが支援している、野口先生ご夫妻、嶋田先生ご夫妻、伊藤先生、佐々木先生なのです。礼拝後にビデオレターを見ることとなっていますが、私たちは、キリストによる福音を告げ知らせるために働いてくださっている先生方を覚えて、共に祈り続けていきたいと思います。
今、世界では新型コロナウイルスという共通する困難の前に立たされています。ある意味、世界中が共通した混乱の中にあるということです。しかし、新型コロナウイルスと一言で言っても、その困難がまったく同じというわけではありません。困難はそれぞれに違いをもつのです。新型コロナウイルスに対する、対応、考え方は各国、各地域の指導者によっても違いますし、今も感染が広がる地域もあれば、落ち着いている地域もあります。また医療が整っている地域もあれば、そうでない地域もあるのです。また、この新型コロナウイルスという大きな困難によって見えなくなっている、環境の問題や、戦争、また災害や差別といった、世界中に広がる多くの問題は、消えてなくなったわけではないのです。未だ、それぞれの場所、それぞれの地域に、多くの問題が残されているのです。
現在は、テレビやインターネットによって、世界各地の情報を得ることができる時代になりました。そのような意味で、世界へ目を向けることができるようになった。その情報量は、以前よりも格段に増えたのです。しかしまた、情報を得ることと、実際にその痛みを分かち合うということは別のものなのです。私たちは世界中の人々の状況や思いを知ることはできるようになりました。しかし、それは偏った考えによる偏った情報となってしまうことも多々あります。今は、新型コロナウイルスという問題ばかりが注目されていて、他の問題はなくなっているようにも思える。そのような意味で、私たちは、この多くの情報から、きちんとした情報を選び取っていかなければならないのでもあります。
私たちは今、世界の人々が持つ問題をどれだけ知っているでしょうか。そして、その苦しみや痛みを、自らの痛みとして、どれだけ思うことが出来ているのでしょうか。私たちは、手軽に、問題を聞くこと、知ることはできるようになりました。しかし、その中で、そこから一歩進み出て、その苦しんでいる人々、一人一人の苦しみや、悲しみまでを自分のものとして受け取ることが難しくなっているのではないかと感じるのです。このことは、決して世界という広さや距離の問題だけではなく、人間としての弱さがここに現れているのでもあります。
私たちは、今、隣に座っている兄弟姉妹の苦しみや痛みをどれだけ知っているでしょうか。そしてまた、その痛みを自分の痛みとして、どれだけ共に背負うことができているのでしょうか。私たち人間は、自分自身の痛みや問題は受け入れて欲しいと思うものですが、人の問題や痛みとなると、とたんに受け入れることが難しくなるものなのです。それは、近くにいる家族であっても、友人であっても、また教会の兄弟姉妹であってもです。私たちは、自分を愛する者であり、愛されたいという者はありますが、隣人を自分のように愛することに踏み出すことを躊躇してしまう、そのような「弱さ」を持つ者、それが私たち人間なのです。
そして、だからこそイエス・キリストは「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)と教えて下さっているのです。
2: 驚くべき御業
神様は、今日の箇所において、私たちに「御救いの良い知らせを告げよ」(16:23)「国々に主の栄光を語り伝えよ。諸国の民に、その驚くべき御業を」(16:24)と語られるのです。神様は私たちに「隣人を自分のように愛しなさい」と教え、そして、イエス・キリストを通して、私たちを愛して、受け入れてくださいました。「自分を愛するように、私たちを愛された」のです。この神様の愛の出来事が「御救いの良い知らせ」イエス・キリストの十字架によってなされた、「驚くべき御業」なのです。
それは、33節に「主は地を裁くために来られる」(33)とありますように、神様はこの世界を裁く、裁き主として来られたのでもあります。裁き主イエス・キリストは、私たちの心の痛みや苦しみ、悲しみだけではなく、私たちの隠しておきたい暗闇の部分、憎しみや怒り、欲望といった心の奥底にある深い暗闇の部分もご存知なのです。イエス・キリストは、私たちのすべてを知っておられるのです。そして、裁き主イエス・キリストは、本来、私たちが裁かれるべき思いを、自らが背負い、担い、そしてその裁きを受けてくださった。それがイエス・キリストの十字架による救いの出来事なのです。 私たちが自分を愛し、自分を愛するように隣人を愛するということは、このイエス・キリストに愛されていることを知ることから始まるのです。
今日の聖書では、「主の栄光を語り伝えよ。」(24)「御前には栄光と輝きがあり、聖所には力と喜びがある」(27)「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ。国々にふれて言え、主こそ王と」(31)「喜び勇め」(32)、「喜び歌え」(33)「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(34)と歌います。ここでは「喜びがあふれています」。「主の救いの出来事、驚くべき御業を喜び祝え・・・喜ぼう」と歌っているのです。私たちは、神様に愛されている。私たちは、私たちを背負って下さるイエス・キリストの十字架の出来事を知り、そしてそこから一歩踏み出し受け入れ、喜びましょう。
私たちは神様のその愛に触れたときに、その喜びをいただくときに、他者を愛し、お互いの問題に目を向け、苦しみや悲しみを受け入れあう、隣人へと変えられるのです。私たちは共に、イエス・キリストの愛を喜びましょう。
3: 十字架によってつながる
今日、招きの言葉で読んでいただいた聖書、エフェソ2章の言葉をもう一度お読みします。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙2:14-22)
私たちは、自分だけでは、お互いを受け入れ、理解するよりも、自分を優先してしまう弱い者なのです。そしてだからこそ、私たちは、イエス・キリストの十字架によって、隣人と繋がる者とされたのです。今、この時、イエス・キリストの十字架の恵みを受けて、お互いに受け入れ合う者、その痛みや苦しみを分かち合う者と変えられていきたいと思います。イエス・キリストの十字架に繋がっていくとき、私たちは、イエス・キリストが受け入れてくださっている、その一人一人と繋がっていくことが許されているのです。
私たちは、世界祈祷日週間のこの時、今一度、神様が与えてくださった恵みが、世界の人々、一人一人に注がれていることを覚え、そして、私たちが、この十字架の恵みに与るとき、私たちもイエス・キリストによって、世界のすべての人々と共に歩むことが赦されていることを覚えていきたいと思います。そしてそれと共に、私たちは、近くにいる、家族のこと、そして友人のこと、そして教会の兄弟姉妹のことをもしっかりと覚えて、お互いに受け入れあい、支え合う者と変えられていきたいと思います。(笠井元)