1: 待つこと
イエス様の誕生を待つアドベントの第二週となりました。イエス・キリストがこの世界に来られたこと。それは、死に打ち勝ち、神の愛を示される、希望の命が生まれたということです。今は、このイエス・キリストの誕生を待つ時です。
「待つ」ことは、様々な意味を持ちます。楽しい時、誕生日や夏休み、運動会やクリスマスといった、みんなでお祝いをする時を待つことはとてもワクワクした気持ちになります。それに対して、これから困難が起こる不安を抱えながら日々を生活するとき、気持ちは暗くなっていきます。今は、冬になり第三波とされる新型コロナウイルスが増えている中で「これからどうなるのだろう」という不安が広がっています。私たちは未だ起きていないことを想像し、「待つ」ことによって、今の気持ちが揺さぶられるのです。とても不思議なことです。今はまだ、何も起こっていないのに・・・その出来事によって、時に喜び、時に悲しみ、不安になったりするのです。人間の想像力は素晴らしい神様からの賜物でしょう。私たちは想像力をもって、これから起こることを「待つ」のです。
アドベントの時、私たちが「待つ」のは、2000年も前に起こった、神様の御子イエス・キリストの誕生を待つのです。これはもっと不思議なことです。2000年も前、つまり過去に起こったことを待ち望むというと、これは時間的には全く理屈に合わない出来事です。イエス・キリストの誕生。それは、2000年以上も前にこの世において起こされた確かな事実です。そして、それは、神様が自らの思いと決断を持って、命をかけて人間を愛するための出来事でした。このイエス・キリストの誕生によって、神様は、人間との壁を打ち砕き、共に生きる方となられたのです。 私たちは2000年前に起きた出来事から、今、また新たに起こされる、命の誕生、神様の愛が起こされる、希望を待ち望むのです。この時、私たちは、今、喜びをいただくのです。
2: 絶望
今日の箇所は、このように言います。【闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。】(9:1)この箇所に言われている「闇」「死の陰」とは、私たちの生活の中で、「朝」から「昼」になり、「夜」になり、「夜中に暗闇」になり、また「朝」がやってくるというような、時間の中での「夜中の暗闇」を意味する言葉ではありません。この「闇」「死の陰」とは、二度と抜け出すことのできない「暗闇」、つまり「朝」「光の時」の来ることのない「絶望」を意味していました。
イザヤ書8章、9章が記された時、イスラエルは、北イスラエルと、南ユダに分裂し、その前には大国アッシリアが迫ってきていたのです。アッシリアという大国が迫る中、アッシリアに対抗するために、北イスラエルは南ユダと同盟をしようとしました。しかし、南ユダの王アハズは、それを拒否しアッシリアと手を組むのです。このことにより、北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされていくこととなるのです。
この時語られた「闇」「死の陰」というのは、大国アッシリアに占領され、まさに死の陰の地にあって、いつも死と隣り合わせで、二度と光を見ることができない、変わることのない暗闇に生きている状況を意味しています。「二度と抜け出すことはできない暗闇」。まさに「絶望」です。
今年は誰も予想していなかった「新型コロナウイルス」という感染症によって、私たちの生活は大きく変えられました。誰がこのようなことを想像していたでしょうか。感染が拡大していく中、今、私たちは「絶望」の中に落とされるのです。そして、この「闇」はどんどんと広がり、深くなっているのです「見ることができないウイルスによって、多くの人々が死んでいく」「何もすることができない」、「もうこれまでの生活は戻らない」と絶望に突き落とされていくのです。今、私たちは、人間の無力さを感じ、まさに「抜け出すことができない、死と隣り合わせの暗闇」に落とされているのではないでしょうか。
3: 神の熱意による新しい命の創造
今日の聖書は、そのような「絶望」の中にいる者に、その「闇」「死の陰」のうちに、人間を越えた光が差し込むことを教えるのです。聖書はこのように言います。【ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。】(9:5-6) 一人のみどりごが生まれた。そこに「希望の光が差し込む」のです。そしてそれは「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」というのです。
一人のみどりご、その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられるのです。この名は、人間を超えた方、神様によって力を与えられ、平和を造り出す方、メシアの存在を言い表しています。神様は、永遠の平和を造り出すものとして、この世界にイエス・キリストを与えてくださいました。
「生まれる」ということ、それは新しい命の創造であり、人間の力を超えた奇跡の出来事です。命が生まれるとき、それは人間の理解を超えた出来事が起こります。先日、劉先生が説教の中でお話してくださったように、人間の命の誕生は、まさに奇跡です。水生動物のように胎内で浮いていた赤ちゃんが、進化のステップを飛び越えて、陸上動物に変えられるのです。人間の理解を超えた、まさに奇跡の出来事なのです。神様は人間の理解を超えた出来事として、絶望に囚われている者に希望の光を与えるのです。
【万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。】(6)神様はこの奇跡を「熱意」をもって起こされました。「神様の熱意」。それは、神様の「情熱」であり、「強い思い、強い決断」です。神様は絶望に囚われた人間を救い出すために、強い思いを持って救い出すことを決心されたのです。そして起こされた出来事が「イエス・キリストの誕生」です。神様は私たち人間を救い出すために、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。私たちは神様の強い思い、その熱意によって、救いを与えられたのです。 私たちの「希望」、絶望という暗闇を打ち破る「光」は、神様が情熱をもって、その命をもって、成し遂げられたのです。
4: 悔い改めよ!!
神の子イエス・キリストはこの世に生まれました。今日のイザヤ書の箇所を、マタイによる福音書では4章12節から16節で引用しています。そして、マタイでは、このイザヤ書の言葉に続けて17節において、イエス・キリストはこのように言われました。【「悔い改めよ。天の国は近づいた」】(マタイ4:17)「悔い改めよ」神様は情熱をもって、わたしたちを愛してくださっています。 悔い改めること、それは、この神様の愛をいただくことから始まります。そしてそれは、イエス・キリストによる奇跡を通して与えられている命を生きることです。イエス・キリストがこの世界、そして自分のところに来てくださった。このことをこの待降節、キリストの誕生を待ち望むときに、今一度確認しましょう。そしてもう一度、どのような暗闇の中にあっても、人間の力では到底抜け出せないような、死の陰の中にあったとしても、神様は、私たちを見捨てたのではない。神様は私たちを愛し、主イエス・キリストを送ってくださっている。この奇跡の出来事、必ず新しい命の創造がなされ、私たちを救い出してくださるという、この希望をもって、歩んでいきたいと思います。(笠井元)