1. 言葉を封じる権力
千人隊長は「鞭で打ちたたいて」パウロを調べるようとしました。「鞭で打ちたたいて」とは拷問です。ローマでは拷問によって自白を強要することを行っていました。拷問は真実を語らせる行為ではなく、ただ言ってほしいことを言わせるための行為です。これは真実の言葉を捻じ曲げる行為であり、権力による暴力です。23章2節では、大祭司アナニアが、パウロの口を打つように命じます。こちらも同じ暴力によって言葉を封じる行為です。
2. 権力の不確実さ
パウロは自分がローマの市民であること、そしてファリサイ派であるということを用いて、この権力、暴力に対応しました。パウロは「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」(22:25)と言いました。このパウロのたった一言によって、この場所は混乱に陥ったのでした。これほど人間の作り出す権力はもろいもの、不確実なものなのです。
イエス様はこのように言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい…。」(マタイ10:28-31)神様を恐れ、より頼み、仕えて生きる、これこそ一番確実な生きる道です。
3. 良心
「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」(23:1)パウロは自分は神様の前にあって正しい行動をしてきたという自負があったのだと思うのです。ただそれは、律法を守っているかどうかということではなく、ただ神の恵みによって救いを得る。その信仰に立っていることを意味しているのです。
ルターは「良心」を「神に捕らえられている状態」としたのです。ルターは人間は罪人であり、ただ神様の恵みによってキリストにより罪人が救い出されたと考えていました。人間の良心とは、この神様を土台として生きることを意味しているのです。
4. ユダヤ人の信仰を継承するキリスト者
パウロはユダヤ人でありファリサイ派の信仰を持って、ユダヤ人としてキリスト者となったというのです。ここにユダヤの信仰を継承するキリスト教というものを見ることができるのです。キリスト教とは、ユダヤの人々が待ち望むメシアがイエスであり、このイエス・キリストの十字架と復活によって信仰の希望が成就したことを信じるのです。
5. 勇気を出しなさい
その夜、主がパウロのもとに来られました。パウロの伝道は困難の連続でありました。それでもパウロは伝道を続けたのです。それは聖霊による導きによるものでした。ここでも聖霊が「勇気を出しなさい」と言い、「ローマでもこのように証しなければならない」と語るのです。神様は、苦しむパウロに生きる目的、希望を示されたのです。(笠井元)