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2020.12.13 「望みの神と心一つに」(全文) ローマの信徒への手紙15:4-13

1:「キリストのように受け入れ合う」って?

私たちは危機の時代を過ごしています。そんな今年にもクリスマスがやって来る。それを待ち望むアドヴェントの時を過ごしています。

今日の聖書の箇所では、パウロという人が、聖書は私たちに忍耐と慰めを教えてくれるものだ。私たちは聖書によって、希望を持ち続けることができると言っています。そこで具体的な勧めとして、【互いに相手を受け入れなさい】(7)とあります。それも生半可な受け入れではなくて、「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように」受け入れ合えと言うのです。

当時のローマ教会には「強い者」と「弱い者」、それから「ユダヤ人」と「異邦人」という、いろんな異なる立場の人たちがいました。こうした立場の違いから、教会はなかなか一つになるということが難しかったのでした。立場の違いによって、人の考えは変わり、心にもすれ違いが生まれてくることがあります。

いまの私たちの社会にとっても、コロナ禍の状況で、そういう「立場」の違いというようなものがどんどん増えているのではないでしょうか。

 

旅行に行った人と行けなかった人。

生活に大きな変化を強いられた人とそうでない人。

家族に会えない人と家族と一緒に住んでいる人。

仕事がなくなったりお給料が減ったりした人と収入の増えた人。

 

「私たちはひとつだ」と思っていたら、気づいた時にはいつの間にか誰かとの間に溝が生まれていた。そういうことがあります。この時代の中で「キリストがそうしてくださったようにお互いを受け入れ合う」とは、どのように生きることなのでしょうか。

 

 

2:そもそも「受け入れ合う」って何だろう?

今から約500年前に、教会では「宗教改革」という事件が起こりました。

その原因としてよく歴史の教科書に書かれていることは、「当時の教会は財政難で、お金を集めるために、人々に、聖書的な根拠のない贖宥状(免罪符)というのを売ってしまいました」ということです。それを有名なマルティン・ルターが非難したのです。

実は、この「宗教改革」というのは、ヨーロッパ中でペストという疫病が流行したすぐ後の時代に起こっています。この「教会の堕落」直前の時代にペストが大流行して、ヨーロッパでは当時の人口の3分の1が死んでしまうということになりました。その時に一生懸命お見舞いに行った神父さんほどたくさん死んでしまいました。一般の人よりも神父さんの犠牲は圧倒的に多く、6割の人が死んでしまったと言います。混乱した教会で、間違いを間違いと指摘できる人は少なかったのです。

ペストは空気感染するのですが、神父さんたちはお見舞いに行って、今で言えば三密状態の病床で、その人たちの枕もとで本当に顔を近づけて、呼吸困難のその人たちを抱きしめながら話をして一緒にお祈りをしました。

今朝の私たちと同じ箇所を読んで、家族さえ見捨ててしまった患者さんたちを、教会は、ペストに罹った人と罹っていない人、その立場を超えて「キリストが受け入れてくださったように」受け入れようとしたのです。

もちろん、当時は原因として「ウイルス」の存在すら知られていませんでしたし、現代ではコロナウイルスに対して、教会も命を守る対策をしっかり取っています。ペストの時の神父さんと同じことをすることが、「キリストにあって互いを受け入れることだ」―それが求められていると考える方はいないと思います。

教会はその後500年間、カトリックとプロテスタントに分かれてしまいましたが、自分たちが何を大切にしているのだろうかと問い続けるきっかけをいただいてきたとは言えます。

2020年、コロナウイルスからも、私たちは何かを問われているのではないでしょうか。

ここで私たちが立場の違いを超えてどんなふうに「受け入れ合う」ことが、「キリストのように互いに受け入れ合う」ことなのでしょう? 

そこで「受け入れ合う」ということを深めていくために、ここで今日の箇所に出てくる「忍耐」という言葉に注目したいと思います。

 

3:受け入れ合えない人間に語りかける神

 日本語で「忍耐」という言葉を聞いた時に、どうしても「じっと我慢すること、耐え忍ぶこと」というイメージがあると思います。そうだとしたらもう十分頑張っているよと文句が出そうです。しかしこれは聖書の言う「忍耐」とは全然違うものです。

本日教会学校で読まれました聖書のクリスマス物語(マタイによる福音書11825節)には「忍耐」した人が描かれています。イエス様の両親=マリアとヨセフは「忍耐」した人です。

この2人の婚約中に、母マリアが「聖霊によってみごもる」という大事件が起こった。それによって、まさに新しく夫婦となろうとする新郎と新婦が、その立場の違いによって、お互いに受け入れ合うということが難しくなってしまいました。

「婚約」という立場のなかでは、マリアの妊娠ということは、まだあってはならないことでした。ヨセフにとっては身に覚えのないことです。マリアにとって大きな災難です。

毎年クリスマスの説教者は、いつもこの時のマリアやヨセフの苦悩に思いを寄せます。「誰の子なのか」「いったいどうすればいいのか」「マリアの身も、下手をするとヨセフの立場も危うい」―マリアは処刑される可能性もありました。突如飛び込んできた状況の中で、2人は悩みに悩んだことと思います。

【夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。】(マタイによる福音書119節)と書いてあります。

けれども、「ひそかに」離縁しようというのは無理があります。離縁するにも、当時の律法でいうと2人の証人が必要です。勝手に自分たちで「さようなら」とは言えません。そもそもじきに周囲の者たちにマリアの妊娠もバレます。そうなれば今度はヨセフが罪に問われます。実は原語的にも、ヨセフがここで「決心した」とまでいうのは言い過ぎです。

実際には「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言う声を聞いた。このことが大切だったのではないかなと思うのです。この神の声を聞くまでは、ヨセフにとって、このことはとにかく突如降って沸いた災難なのです。マリアと離縁はしたいけれども、本当にはどうしていいかわからない。どうしようもなく立ち往生する。そういうヨセフの姿があって、そこで何が起こったか。神様がヨセフの名前を呼んでくださったのです。

その時ヨセフははじめて、弱い一人の人間として自分だけでは到底できなかった決断に導かれました。マリアを受け入れる。困難の中で信じるしかない。そのど真ん中にイエス様がお生まれになる。

ここでヨセフが神の声を聞いてマリアを受け入れた。この災難から逃げずにその状況を生きた姿が、聖書の言う「忍耐」なのです。

聖書の言う「忍耐」、パウロが今日の箇所で言っております「忍耐」(ギリシア語のヒュポモネーという単語)は、特定の状況の「下に留まる」というのがもともとの意味です。そこから派生して聖書以外の古典では、怒涛の嵐のように試練が襲う中でそれに抵抗する勇気を表している。そういう用法もあるそうです。そしてそれは絶対に個人的なことには使わない言葉、誰かと関係のある時にしか使えない言葉です。

ヨセフは、自分を突如襲ってきた、自分に身の覚えがない婚約者の妊娠という試練に対して、けれどその状況で神の声を聞き、それによってマリアを受け入れ、その状況に留まり続けた。そこではいろんな戸惑いがあった。「神様どうしたらよいのですか。私はこんなふうに思っていますが、どうしたらよいのですか。」今日の私たちで言えば、祈ることしかできないような時、ヨセフはそこで神様が自分の名を呼んでくださるのを聞いたのです。

神様が自分を見ていてくださったことに気がつく。そこにヨセフは「慰め」を得ました。試練に翻弄されながらも、神様の呼びかけによって、ヨセフと神様。ヨセフとマリア。そこにイエス様がお生まれになったことによって、神との間に、この人たちの間に新しい関係が築かれていくのです。「忍耐」の時を経て、神との交わり、新しい救い主誕生の喜びを味わう命をいただいたのです。

 

4:神様は受け入れてくださっている。わたしたちは?

2020年突如として私たちの日常の中に飛び込んできたコロナウイルスという試練に対して、何をしていくことが正解なのか、教会にも世の中にもまだ十分な答えがありません。

けれど間違いなく言えることは、今日の私たちの生き方全体が問われているということです。

教会も、簡単には集まれないとなった時、礼拝を短くしなければならない時、「これだけは削れない」というものは何かを問われました。そこで「何が一番大事か」と考えるときにも、人によって違いが出てきます。その上で私たちは隣人と一緒に生きていこうとします。

コロナのことを含めて、私たちが生きていく中では、ときに本当に困り果て、「どうしたらいいのですか」と祈るほかない時があります。今日の箇所で言うなら「強い者―弱い者」「ギリシア人―ユダヤ人」立場の違い―そこから心の溝が生まれることもある。

しかしそこで、「神と人」というこれ以上ない決定的な立場の違い、その隔てを神様自ら飛び越えてきてくださった。栄光の神が、望みなく試練に翻弄される人間の闇=現実のただ中に、確かな光=希望としてお生まれくださった。それがクリスマスの出来事です。

私たちは、このキリストの下に共に留まり続けます。それが聖書の「忍耐」です。ここには確かな「慰め」が与えられるのです。

先ほど取り上げた教会学校の箇所では、イエス様についてこう書かれていました。

【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】(マタイによる福音書123節)

私たちは、キリストの下に一緒に留まり続けます。それは、私たちが何かがんばってキリストの足にでもしがみついて、それで留まり続けようという意味ではありません。私たちの「忍耐」とは、今日試練のただ中にいる私たちの名を神様が呼んでくださる。共にいてくださる=「インマヌエル」という方であることを受け入れて生きることです。

神様が私たち人間と一緒にいてくださる。それは神様が、いつも神と人の立場を超えて、私たちを受け止めてくださっているということなのです。その神様に声をかけられたから、ヨセフとマリアも、互いを受け入れました。そこにイエス様がお生まれくださいました。

たとえ互いに受け入れ合うことが難しい、もしそういうことがこれからの時代の中でどんなに出てきたって、キリストに留まって互いのことを知ろうとするなら、自分と違う立場の人には違う立場の人なりの辛さとか悲しみがあるということが必ず見えてきます。赤ん坊のイエス様を見るとき、私たちは神様の前で、自分たちがいかに何かをなし得るような者ではない、弱い存在であることを知ります。

このキリストによって私たちはいつも新しくつながり、共に生きる者となる。そして、この教会から、新たな時代の中に、どんな立場をも超えたつながりが生まれていくのです。どんな時にも私たちと共にいてくださることを望み、私たちを受け入れてくださる神様と望みを一つに、私たちも互いの名を呼び合い進みたいのです。

クリスマスおめでとうございます。

【希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。】(13)(高橋周也)