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2020.12.20 「喜びあれ、主があなたと共におられる」(全文) ルカによる福音書1:26-38

1:  喜びなさい

皆さん、クリスマスおめでとうございます。天使はマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28)。これこそ神様が私たちすべての人間に与えてくださる、クリスマスのメッセージです。この言葉は、岩波訳聖書では「喜びあれ、恵まれたひと、主があなたと共にある」となっています。「おめでとう」とは本来「喜び」を表す言葉であり、ここでは命令形の言葉となっているのです。つまり「喜びなさい!」と天使は語りだしたのです。そしてまた「恵まれた方」という言葉は現在完了形であり、そのニュアンスで読み取るならば、ここでは「すでに恵まれ、今も恵みにある方」「喜びなさい」「主があなたと共におられる」となるのです。神様は、「わたしがあなたと共にいる。あなたは私の愛と恵みのうちにすでに置かれていて、今も、これからも愛に包まれている。だから喜びなさい!!」と語られたのです。

 

今年は、誰も予想をしない年となりました。世界中に新型コロナウイルスという感染症が広がり、現在、感染者は7000万人、死者は160万人を超えています。ある国の大統領は「コロナに感染したことは神様からの祝福だ」と言ったりもしました。何千万人の人が苦しむ中の発言とは思えません。今、世界は混乱しています。そのような世界に、そして私たち一人ひとりに、このクリスマスの時に神様は、「喜びなさい」と言われました。それは漠然とした希望や、考え方の問題ではなく「わたしがあなたと共にいる」という明確な理由の上にあるのです。「喜びなさい」。私たちは今、コロナという不安の中にあります。しかし、この時も、神様が私たちと共にいてくださるという、その一点において、今も恵みのうちに置かれていることを知るのです。「わたしがあなたと共にいる」だから「喜びなさい」と神様は語られているのです。

 

2:  今、頂く神の御言葉

この恵みの言葉は、最初のクリスマスの時、マリアという一人の女性に向けて語られました。30節から天使はマリアに「身ごもる」こと「男の子を産む」こと「その子をイエスと名付ける」こと、「この子は偉大な人になる」こと、「神である主がダビデの王座をくださる」こと、「ヤコブの家を永遠に治める」ことと、驚くことばかりのことを次々と語りました。普通なら「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われたところでもう頭はパンクしてしまいます。マリアはこの天使の言葉に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(34)とだけ答えました。

この時のやりとりを読む中で不思議なことは、このマリアの上に起こることの時期が語られていないということです。このときマリアはヨセフと婚約中でした。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は偉大な子となる」と言われたとき、普通はヨセフとの婚約期間を終え、ヨセフと結婚し、その生活の後の出来事として受け取るのではないでしょうか。「いずれ、あなたは身ごもって男の子を産む。そしてその子は偉大な子となります」と言われたならば、ある程度理解できる言葉となるのです。

しかし、マリアはそのようには受け取りませんでした。そのことを表す言葉が「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(34)となるのです。マリアは、「いずれ」ではなく、今の自分に、「今この時」に、神様の言葉が語られたものとして受け止めているのです。神様のみ言葉は、そのように私たちの準備が整ってから受け入れるものではないのです。

神様は「喜びなさい。恐れることはない。わたしがあなたと共にいる。」と、み言葉を送ってくださいます。私たちは、この言葉を、自分の準備が整ってからいただくのではないのです。今、この時、この場所でいただくのです。混乱し不安の渦に飲み込まれそうなこの時、この世界に、そして私たちの人生に、神様が来てくださるのです。神様は、今、私たちのこの命に切り込んでこられたのです。今が神様の恵みをいただくときなのです。

 

3:  一番小さく弱い者としてこられた方

 クリスマスはイエス・キリストが救い主として、この世界に来られたことを、思い起こし、喜び祝うのです。主イエスはこの世界に来られました。しかし、その姿は、ここで予告されるように「マリアが身ごもった子ども」として来られるのです。このことは、マリアからすれば理解のできないことだったのではないでしょうか。

「喜びなさい」「わたしがあなたと共にいる」と言われた。しかし、その方は自分の子ども、自分が産む赤ちゃんとしてこの世界に来られるのです。まるで自分が神を産みだすようです。もしマリアがヨセフから捨てられ、ユダヤの法律によって姦淫の罪に問われて殺されれば、そこでその子も死んでしまうことになるのです。

赤ちゃんは母親に命を委ねるしかないのです。弱く、小さく、最も無力な者だと言えるでしょう。神の子イエスはそのような無力な者、一番小さく弱い者として、この世界にお生まれになりました。この世界において、支配するとは力と権力と強さで押さえつけることです。だから支配をしたいと思う者は力を求め、強さを求めます。しかし、そのような世界にイエス・キリストは赤ちゃんという一番無力な者として来られたのです。それは、神様の支配を表します。神様は、力ではなく愛で、強さではなく弱さで、威圧ではなく謙虚さで、私たちを支配される。支配という言葉ではなく「治めて」くださると言ったほうがよいかもしれません。私たちを愛で包み込み、愛で治めてくださるのです。ここに神様は「わたしがあなたと共にいる」という言葉を実現されるのです。

 イエス・キリストの誕生。それは神様の愛の支配の始まりを表します。そしてその道は十字架という弱さのうちで死なれた、そのイエス・キリストの姿に続くのです。神様は、私たちと共にいてくださる。私たちを愛で包んでくださる。そのために、神様はこの世界にお生まれになったのです。

 

4:  主は待っておられる

 35節から天使はマリアに「聖霊が降り、いと高き方の力があなたを包む・・・神にできないことは何一つない」と言うのです。この言葉にマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38)と答えました。天使に「神にできないことは何一つない」と言われたマリアには、どのような選択肢があったのでしょうか。マリアは、「わたしにはできません」と断る権利を持っていたのだと思うのです。そのうえで、この時、マリアは考え、悩み、そして最終的な答えとして、「わたしは神様、あなたのしもべです」と答えたのでしょう。

 

つまり、「神様、わたしはあなたに造られた者であり、あなたに従うべき存在であり、あなたに仕えて生きていきます」という信仰告白なのです。マリアは神様の言葉を受け入れて、従う道を選び取ったのでした。このマリアの選び、神様への応答は、マリアが信仰をもっていったとも言えますが、ここでは、それ以上に神様が働いてくださったことを見たいと思うのです。このマリアの応答を終えて「天使は去って行った。」(38)のです。「そこで」とは、このマリアの応答をもって、天使の働きが完了したことを意味します。つまり、このマリアの応答を聞くまで天使はそこにずっといた。いる必要があった。このマリアの答えを待っていたのです。

神様は、私たちが神様の招きを選び取ることを待っておられるのです。神様は、「喜びなさい。わたしがあなたと共にいる」と、私たちを招いてくださります。その招きは、神様が小さく無力な者として、この世に生まれ、十字架の上で死なれたという出来事を通して、起こされた、神様の命を懸けた招きです。この神様の招きに、私たちは応答することも、拒否することも選ぶことができます。ただ、神様は、私たちがこの招きに応答することを待ちつづけ、愛を注ぎ続けてくださっているのです。それは、ある意味、私たちがどれほど拒否をし続けても、神様は、それでも、どこまでも待ち、私たちが応答する者と変えられるため、いつまでも隣にいて、愛してくださっているのです。

 

5:  困難な人生への招き

マリアは、神様の招きに応えていく者として歩き出しました。しかし、その道は、この世的に考えればとても危険な道で、困難な道でもありました。神によって身ごもった。それは姦淫を犯したとされ、石打ちによって殺されてもおかしくない道なのです。神様の招きに応える道は、この世界の価値観で言えば、とても困難な道なのです。私たちは、今、この不安と混乱の中にある世界において、この世界の価値観で生きるのではなく、ただ神様の招きに応えて生きて行きたいと思うのです。

 

神様は「喜びなさい」と言われています。それは「主が共におられる」ということを受け入れる時に与えられる恵みを実感することによって与えられる喜びです。私たちは、今、このとき、このクリスマスの時に、神様の招きに応えて、本当の喜びを受け取っていきましょう。(笠井元)