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2020.12.24 「光は闇の中に輝いている」(クリスマスイブ礼拝・全文) ヨハネによる福音書1:1-5

 クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする礼拝です。イスラエルの一日の数え方では、25日は、今夕24日の午後6時から始まりますので、今夕こうして集まっています。今年は、多くの友人たちからすでにクリスマスの挨拶をいただきましたが、光と闇に関するみ言葉が多かったと思います。それほど、闇の世界が広がったという想いを多くの方が感じておられるのでしょう。そこで、光はやみの中に輝いているという言葉が登場するヨハネ福音書から皆様にメッセージを贈りたいと思います。

 

1.初めに言があった

私たちの主である、イエス・キリストについて証言するため、ヨハネは「初めに言があった」とは語り出しています。マルコによる福音書はイエス様の生涯を、バプテスマを受けられた時、およそ30歳頃以降から描きます。マタイによる福音書とルカによる福音書は、初めてのクリスマス、つまり、聖霊による不思議な誕生物語からイエス様の生涯を描きます。ヨハネ福音書は、さらに遡って、キリストの誕生以前、天地万物の創造にまで遡ります。これは凄いことを言っています。「言」とはギリシヤ語の「ロゴス」(logos)の翻訳ですが、イエス様が語り、生きた言葉=「ロゴス」は、天地万物の創造の初めに存在していた。すべて存在しているものは、人がどのように判断したとしても、「生きる価値がない」という歪んだ判定をしたとしても、そんなことはない。神の愛の語りかけの結果として、神との深い関係において、かけがえのないものとして造られているというのです。その神の語りかけの慈しみに漏れるものはないというのです。皆さんはそのような神の愛の中に生きています。そのように造られました。今日、天地万物の中に働く「言」=ロゴスを「物理」と言い、多くのことが解明されています。人間はほとんど神の世界を理解するようになりました。これに対して、人間の中に働く「言」=ロゴスを「道理」と言いますが、どうも今日では「道理」が通らない、人間そのものの諸問題、空虚さが噴出していないでしょうか。イエス・キリストは神の独り子としてこのような世界に、来られた「言」=ロゴスそのものです。ヨハネが福音書を整えた時代と私たちが生きている時代は闇が濃くなった社会として似ているのかも知れません。紀元70年ユダヤ戦争が勃発し、ユダヤ人はその精神的中心であったエルサレムを失います。それから20年後の90年代に入ると、ローマ帝国の皇帝ドミティアヌス時代、ユダヤ人とキリスト者に対する迫害の動きがちらつきます。ローマ帝国の統一のために、国の外に敵を作り、帝国内では、民衆を分断するやり方は小賢しい権力者の常套手段です。そのような闇の広がるこの世界に神の語りかけであるキリスト・イエス様が来てくださったのです。

 

2.光はやみの中に輝いている

光はやみの中に輝いている。」今年は実に多くの人々からこのみ言葉をいただきました。それほど、「闇」の力に翻弄されている私たちなのでしょう。私も、この言葉と、それに続く、「やみはこれに勝たなかった」という言葉を今年のイブ礼拝のメッセージに選びました。闇の世界。われわれの生きるこの世界がいかに不平等、理不尽、不安に満ちているかはお話する必要はないかも知れません。昨年クリスマスを過ごし、年末、炬燵に入っていると12月29日元ニッサンのカルロス・ゴーンという人が国外逃亡したというニュースが飛び込んできました。経営者としての彼の評価はわかりませんが、金があれば何でもできるのかという印象を受けました。年が明けると、1月3日米国が「ドローン」を使ってイラク、バクダード空港近くでイスラムの革命防衛隊の司令官ソレイマーニを暗殺しました。私はイスラムの暴力革命を肯定しません。そして、人の殺し方にそんなに大きな差異はないのかも知れませんが、自分たちは安全地帯にいて、互いの顔の見えないドローンで人を殺す世界にゾットしました。2020年はどのような年になるのか誰もが暗い思いになっていました。そして、2月にはダイヤモンドプリンセス号がコロナイウルス感染者を乗せて横浜港に入港しました。その後の顛末は皆さんご存知であり、私たちは今も、酷く傷つけられています。「あしたのジョー」という漫画を描いた、ちばてつやさんは、コロナウイルスの顔をマンガに描けないと言っています。目に見えないウイルスへの恐怖です。そして、一方で意味不明なオシャベリをしすぎる政治家たちがおり(安倍首相の虚偽発言118回)、他方、「お答えを差し控えさせていただきます」という答弁が毎年300件を超え、対話を拒否する、説明責任を果たそうとしない政治家たちがいます(立命館大学の准教授による)。日本学術会議が推薦した内の6名を首相が任命を拒否したことは前代未聞ですが、政府を批判するような学者は「総合的・俯瞰的にみて更迭する」という意図がありありなのですが、「詳しい説明は差し控えさせていただきます」と応答する人を私たちは国の指導者としているのです。そして、各国政府がお金を印刷して株式市場に投入する破れかぶれの社会が進行しています。貧しい人々はますます貧しく、富める人はますます豊かになるという暗やみの社会が随分進みました。突然の小・中・高の全国一斉「休校?」がありました。異常に暑い夏が追い打ちをかけ、7月には人吉、大牟田の水害のテレビ画面に心が潰れそうでした。中国による香港の自由への弾圧も続いています。2020年は、たぶん、これからも記憶され続けるであろう暗い一年でした。しかし、この闇の中に光は輝いているのです。ヨハネ1:1~5の中で他の文章はすべて「過去形」(あるいは未然形)で書かれています。神のみ子が歴史世界に誕生する前のこと、天地万物の創造のことを語っているからです。しかし、「光はやみの中に輝いている。」(phainei)この一文章だけが現在形なのです! 不思議にいのちと力に溢れた言葉です。「光はやみの中に輝いている。」

 

3.光(to phōs)の到来

  私たちは、「光」ということで何をイメージするでしょうか。

3-1 いのちを与える太陽

まず、太陽です。太陽は地球に生きるわたしたちに「いのち」(to biosではなくhē zōē)を与え、「いのち」を育みます。クリスマスはなぜ全世界で祝われるのでしょうか。それはこの時期は、一年で日が一番短い冬至の季節だからでしょう。この時から日が少しずつ長くなります。「明けない夜はない」という言葉がありますが、歴史世界において神の愛と正義が成就する「夜明け」が来ることを私たちが信じています。十字架で殺された主イエスは死者たちの中から引き上げられて、今も生きて働いておられます。このお方が全世界の人々が認めざるを得ない形で到来します。かつて用いられていた教団讃美歌には「義の太陽は射し出でぬ」(345番)がありました。また、クリスマスの讃美歌に、「朝日は昇りて、世を照らせり」(97 歌詞に途中問題もありですが)というのもありました。確かに、春が来て、夏が来て、また、秋が来て、また、寒い冬が来る(南半球では逆ですが)という繰り返しのイメージ、そして、太陽の「力」の象徴は問題を孕んではいます。にもかかわらず、人にいのち与え、いのちを育む太陽のイメージは素晴らしいものです。主イエスは愛と義といのちの光です。

現在では、「暗闇は光を理解しなかった」(KJV)と翻訳しますが、私はあえて「やみはこれに勝たなかった」という口語訳(NRSV)を選びました。(ou katelaben、2aor. ind. act. 3 per. sing 握って所有する、そこから理解するの謂)「理解しなかった」とすれば、闇の深さその無知、反理性主義を強調しているでしょう。「やみはこれに勝たなかった」と翻訳すれば、闇の力がいかに強くとも、決して光を消すことはできなかったということが強調されることになるでしょう。

 

3-2 闇を照らすランプのイメージ

 もう一つの光のイメージは闇を照らす温かい、ぬくもり、ランプの光です。今夜はこのイメージを少し膨らませてみましょう。今夜はローソクの光の中で、最初にイザヤ42:1-3の言葉を聞きました。遙かにイエス・キリストの到来を望み見る有名な「主の僕」の歌の一節です。「見よ、主の僕を!」で始まります。あのイザヤ53章の「苦難の僕」の歌で頂点に達する一連の「主の僕」の歌の出だしの箇所です。主なる神の僕は、叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。決して、ラッパを吹いて空しい自己宣伝をしないお方です!そして、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」と言われています。社会的に弱くされた人たち、風に揺らぐ弱い葦のように傷つく、社会の周辺に追いやられた者たちを支えて、「裁き」(mišpāt)つまり、権力や豊かな者たちに「忖度せず」、悪を決して見過ごしにすることのできない正義と失われた者たちを見捨てることのできない慈しみに満ちた愛による審判、それが「ミシュパート」です。この主の僕は、戦争、露骨な力、脅し、というような方法によってではなく、神と人に奉仕する仕方で、そのような裁きを導き出し、確かなものとする。しかも、蔑まれた、「異邦人たち」(1節 国々と翻訳されている)の中で、「全地に」(4節)と言われています。

「暗くなっていく灯心」を消すことなく。ここで灯心とは、油を満たした土器のランプにさする芯のことで(smoking flax ūpištāh kêhāh)、亜麻糸や木綿で作られていました。私に神学を教えてくれた先生に、プリンストン大学神学院教授の女性神学者である、キャロル・レイキー・ヘス先生がいます。ヴァージニアのリッチモンドのユニオン神学校で教育を教えてくれた方です。アメリカ・インディアンと米国のアングロ・サクソンと、ユダヤ人の血が流れている人です。これほど優れた人にあったことがないような人でしたが、彼女が説教し、講壇から降りてくると「お前のような女が説教するな」という紙きれをなんどかつかまされたそうです。幼少時代から女性の生きにくさに抵抗して拒食症になり、死にかけた経験を持っている方でもあります。彼女の、Caretakers of Our Common House, 1997)(『われわれの公共の家である教会のお世話掛りたち 信仰共同体における女性たちの発達』)という本の中で、カロルは言います。「自信を失い、自己肯定感が薄く、自己評価ができなくて悩んでいる少女たちの「燻ぶって、消えかけた灯心を扇ぐこと」が少女たちをお世話することである」と言っています。消えかけた灯心は、余り強く扇ぐと消えてしまいます。しかし、また少し風を送らないと消えてしまう。その人にあった風を送ること、微妙な働きです。新約聖書が証言するイエス様はまさにそのような風を送る「僕」の道を歩まれました。「彼は傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」

 

4.ほどよく扇ぐこと

 最後に、「ほどよく扇ぐこと」について考えてみましょう。たぶん、皆さんの大好きな聖句「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」の後に、「霊の火を消してはいけません。」と言われています。(Iテサロニケ5:1619a)。「暗くなって、燻る灯心」は、少し扇いで風を送らなければ消えてしまいます。扇ぎすぎても消えてしまいます。コロナイウルス感染拡大の危機と不安の中で知らされていることは、人は一人ではなく、共に生かされ、生きていること、不安に生き、傷ついている人をそっと大切に思い、小さな愛を注ぐこと、自分もまた随分傷ついていること、そんな「わたし」、「わたしたち」であることを受け入れることではないでしょうか。暗い1年でした。鶴見健太郎さんと、秦フサヨさんをイエス様の御許に送りました。コロナイウルスの感染防止のために十分の「看取り」をすることができませんでした。しかし、教会堂で葬儀を行うことができたことは喜びでした。また、青年たちも何人かが加わりました。嬉しいことです。来年からは東福岡教会の過去の先輩たちの生き方の記録を辿り、若い世代に「東福岡教会ってそういう教会だったのだ」ということ、先輩たちの喜びと苦闘を発掘したいと考えています。ほどよく扇ぐこと、霊を消してはならないということに従うことになればと願っています。

クリスマスから始まる新しい年も、イエス様から教えられた神に信頼することと、隣り人に対して、ささやかな愛の業を実行しましょう。

 

 (松見俊)