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2020.12.27 「イエス・キリストの情熱に触れて」(全文) マタイによる福音書21:12-17

皆さん、おはようございます。今日も、私たちは、聖書から神様の御言葉を受け取っていきたいと思います。今日は、2020年最後の礼拝となります。私たちにとって、今年は暗闇の年だったのではないでしょうか。突然の新型コロナウイルスによって始まり、その苦しみが世界中に広がっていったのです。新型コロナウイルスは突然の出来事でした。ただ、闇の世界になっていったことは、突然というよりも、この世界にあったもともとの闇、人間の命よりも、経済を大切にし、他者を思うよりも、自分だけを大切にしようとしている、人間の本質が表に出てきた出来事だったのではないかと思うのです。

この世には、もともと多くの場所において闇のうち、苦しみの中に生きる人々がいたのです。しかし、多くの人々にとって、それは他人事でした。特に、富裕層の人々にとって、衣食住に不安を持たない人にとっては、これまであった多くの問題が、自分にとっては他人事だった。それこそ、私たちにとってもではないでしょうか。この新型コロナウイルスは、その人間の闇、苦しみが、すべての人間に襲ってきたのです。命の危険はないと思っていた人、自分は安全なところにいたはずの人のところに、命の危険が襲ってきた。すべての人間が、不安の毎日を過ごさなくてはならなくなったのです。

今年は、すべての人間が、そのような、本当の闇、苦しみ、不安の中で生きた。そして、来年もこのことは続くのです。そのような中、先日、クリスマス・イブ礼拝では、松見先生が、今、現在、この闇の世界にも光が輝いてる、ということを語ってくださいました。イエス・キリストは、今ここに来てくださっている。今日は、このイエス・キリストの情熱、本当の愛を受け取っていきたいと思うのです。

 

1:  イエスの情熱

 今日の箇所は「宮清め」として、イエス様が、憤られた記事として、有名な箇所となります。イエス様といえば優しく、愛に満ちた方であるというイメージがあると思います。しかし、ここでイエス様は神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた者を追い出し、両替人の台や、ハトを売る者の腰掛を倒されたのでした。ここには、イエス様の憤りという感情を見ることが出来るのです。

 人を愛することは、情熱を持って、関わることです。それは、その人が苦しんでいれば、共に苦しみ、寂しい人がいれば、隣に来てくださり、また時に間違った道を歩いていたとすれば、正しい道を歩くために、怒りをもって正してくださるということです。「愛の反対は無関心」と言われますが・・・ここでは、イエス様が情熱という愛をもって、人間に関わってくださる姿を見るのです。私たちはそのことを喜びたいと思うのです。ただ、もしかしたら素直に喜ぶだけではいられないかもしれません。間違えて生きているとき、神から離れようとしているときには、迷惑でうっとうしい存在となってしまうかもしれません。私たち人間同士においても、関わることはとても力のいることです。情熱が必要です。人間は、自分が傷つくとき、関わることをやめたくなることもありますし、実際にやめてしまうこともあるでしょう。そして、完全ではない人間は、時には、離れることが必要な時もあるのです。

しかし、完全なる愛の方イエス・キリストは、私たちがどれほど闇の中にあったとしても、情熱をもって、私たち一人ひとりを愛し、いつも共にいてくださる。イエス様は離れてはくれないのです。見捨ててくれない、うっとうしくても、離れることのない方であるということであり・・・それは、十字架の死によって示されたように、命をかけて、私たちに関わっていてくださるのです。

 

2: 礼拝とは

 この「宮清め」の理解としては、多くの場合に商売をする人たちが、祭司長たちとつながっていて高値で犠牲の動物を売りつけていた李、両替人がユダヤの通貨に両替するときに、高い値段を吹っかけたりしていた。このことを、イエス様がお怒りになられたと理解することが多くなされてきました。ただ、今日は、少し違う理解の仕方をしてみたいと思うのです。ここでは、イエス様は「売り買いしていた人々皆」を追い出しました。つまり、単純に悪徳業者を追い出したということではなく、買う人、つまり巡礼に来ている人、神様に礼拝に来た人たちも追い出されているのです。イエス様は、この神殿にある礼拝の行為自体が間違っていることを、教えられたのです。

 エレミヤ書7章では、このように言われています。

7:8 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。7:9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、7:10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。】(エレミヤ書7:8-11)

 ここでは、異教の神々に従いながらも神殿に来て、「救われた」と言っている者が神殿を強盗の巣窟にしていると語っています。今日のこの箇所において、イエス様は同じように、神殿で礼拝はするけれども、心はまったく別のところにある者たちに、「あなたがたは『救われた』と思っているかもしれないが、神殿を強盗の巣窟にしている」「神様を神様とした礼拝をしなさい」「礼拝は、ただ、自分の救いの安心、自分一人の幸せを得るためではない。この礼拝を通して、神様の愛と恵みに触れ、神様に従う者と変えられる。そのための礼拝なのです」と教えているのです。これは、今ここに集まっている、私たち一人一人にも同様に問われ、教えられていることです。

 皆さんは今日、何のためにこの礼拝に来られたのでしょうか。今、何のために礼拝をしているのでしょうか。「礼拝」は、神様を神様とすることです。この世において、いつも自分が一番、自分中心に生きている私たちが、今一度、神様を神様として生きる道に立ち帰る時であり、神様に心を差し出すときなのです。今日、皆さんは、この礼拝において、何を得ようとしているのでしょうか。

 

3: 礼拝する者へと変えられる

 今日の箇所において14節では、目の見えない人や足の不自由な人たちが癒されました。この記事は、社会から排除されていた人が、礼拝に参加することができるようにされたと理解することが多くあります。しかし、別の資料では、このときすでに、目の不自由な人々や足の不自由な人々は、礼拝に参加することは許されていたともあるのです。ただ、この人たちは、許されていたが、その義務は免除されていたということです。つまり、積極的に礼拝をする必要はなかったということです。

 イエス様は、そのような者たちの目を開き、足を癒された。この癒しとは、イエス様はその情熱、強い思い、それは最終的には十字架という痛みや苦しみをかけてでも、その者たちと関わり、生きてくださるということです。そして、それは人々が、積極的に礼拝をする者、きちんと目を神様に向け、きちんと神様の前に立ち、礼拝をする者とされたという意味を表しているのです。

 今日、私たちは何のために礼拝に集まったのでしょうか。それがどのような心であっても、今この場に集うとき、私たちは、イエス・キリストが私たちの心に来てくださり、心を癒してくださるということ、イエス・キリストの命をかけた情熱・愛を受け取りたいと思うのです。私たち人間は、弱さを持つものです。だからこそ、このように神様の前に集まるのです。礼拝をするのです。ここに来た時に、イエス・キリストが、情熱をもって、私たちの心に触れて、私たちの心を癒してくださる、愛で満たしてくださるのです。

 

 ここでは、子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と賛美しました。イエス様はマタイ18:3では、【18:3 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」】(マタイ18:3-4)と言われました。「子どものようになる」。それは、自分は無力であることを自覚することです。わたしたちは今、神様の前にへりくだり、神様を自らの救い主であると信じて歩みだしたいと思います。

今日、ここで礼拝をするということ。それはイエス・キリストに癒されて、神様の愛を頂き、新しく生きる道を歩き出すということです。つまり、このあと礼拝が終わり、外に出たら、神様を忘れて生きて行くのではなく、新しい一週間を歩む中で、「神様にへりくだり」生きていく、そのための礼拝です。

今日が今年最後の礼拝となります。今、私たちは、新しい年を迎えるにあたり、今一度、イエス・キリストに心に触れていただき、変えられて行きたいと思います。イエス・キリストはそのために情熱を持って、愛をもって、私たちに関わってくださっているのです。この神様の愛を受けて、新たな一年を迎えていきたいと思います。(笠井元)