1: イエスの情熱
イエス様といえば優しく、愛に満ちた方であるというイメージがあります。しかし、ここでイエス様は神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた者を追い出し、そして両替人の台や、ハトを売る者の腰掛を倒され、『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』(13)と言われたのです。イエス様の憤りという感情を見るのです。人を愛することは、情熱を持って関わることです。苦しんでいれば共に苦しみ、寂しい時は隣にいて、間違った道を歩いていたら怒りをもって正してくださるということです。「愛の反対は無関心」と言われますが、イエス様が情熱という愛をもって人間に関わってくださるのです。
2: 礼拝とは
イエス様は「売り買いしていた人々皆」を追い出しました。単純に悪徳業者を追い出したということではなく、買う人、巡礼に来ている人、神様に礼拝に来た人たちも追い出されているのです。イエス様は、この神殿にある礼拝の行為自体が間違っていることを、教えられたのです。エレミヤ書では異教の神々に従いながらも神殿に来て、「救われた」と言っている者が神殿を強盗の巣窟にしていると語っています。
イエス様は同じように、神殿で礼拝はするけれども、心はまったく別のところにある者たちに、「あなたがたは『救われた』と思っているかもしれないが、神殿を強盗の巣窟にしている」「神様を神様とした礼拝をしなさい」と教えているのです。今、皆さんは、何のために礼拝をしているのでしょうか。この礼拝において何を得ようとしているのでしょうか。
3: 礼拝する者へと変えられる
14節では、目の見えない人や足の不自由な人たちが癒されました。イエス様は、そのような者たちの目を開き、足を癒され、人々が積極的に礼拝をする者とされたのです。イエス様の癒しとは、神様を神様としていない者を神様に目を向けて生きる者とされたということなのです。イエス・キリストは、今、私たちの心に来てくださり、私たちの思いに触れてくださり、心を替えてくださいます。
わたしたちは今、神様の前にへりくだり、神様を自らの救い主であると信じて歩みだしたいと思います。(笠井元)