1: 一年を振り返って
今日は、新しい一年を生きるにあたり、「新しい命を頂いて生きる」ことを共に考えていきたいと思います。昨年は皆さんにとって、どのような年であったでしょうか。昨年を振り返り、「とても素晴らしい一年であった」と言う人は、まずあまりいないと思うのです。何といっても、昨年は新型コロナウイルスという伝染病が発生し、世界中に感染していきました。そのため、これまでの生活とは全く違う「新しい生活」をすることになったのです。学校や職場ではリモート・テレワークといったものが始められ、新型コロナウイルスによって、これまでとは違う生活、新しい生活で過ごすことを余儀なくされたのでした。このような新型コロナウイルスの感染が収まらない中、未だ、これまでとは違う生活を送る中、私たちは新しい一年を迎えました。私はこの新しい一年を歩むにあたり、「良かった」と思える一年を過ごして行きたいと思うのです。
ただ、どうしたら「良かった」と思える一年になるのか・・・と考える中で、逆に自分が過ごしてきた、昨年一年間が本当に「素晴らしくない」ものであったのか、疑問を持ったのです。確かに昨年は多くの人が感染し、亡くなられた、艱難の年でした。それは変わらないでしょう今、この時も新型コロナウイルスに感染し、苦しんでいる方が、たくさんおられます。そのため簡単にこのようなことは言うことはできないとは思うのですが、・・・この困難の中、多くの人々と支えあい、励ましあい、祈りあい、過ごすことができたのではないかとも思うのです。
2: 関係の断絶と差別
今年も、この新型コロナウイルスの中に歩むことになります。新型コロナウイルスには、多くの問題があります。そのなかでも、二つの大きな問題があると思うのです。一つは「関係の断絶」、もう一つは「差別」です。
「新しい生活様式」が勧める一つは、感染しないように距離を取ることです。距離をとることによって、感染することを防ごうとしているのです。それは間違ったことではないでしょう。問題は、身体的距離をとることが、精神的な距離も離し、お互いの存在の距離も離れてしまうことに繋がってしまうということです。世間では、「テレワーク」「リモート飲み会」など、離れていながらも、同じ時間を過ごす方法が考えられました。これらは知恵と工夫で考えられた大切な一つの方法であったと思うのです。ただ、このようなものを使うことによって、もっと大きな問題が見えてきたのです。それは、インターネットによる関係の大きな問題として以前から言われてきたものでもありますが、誰だかわからない人が、責任を持つことなく人を批判し、消えていく。ただ言いたいことを言って、つながりたいときだけつながり、面倒くさくなればその関係をいつでも切ってしまう。そのような関係が広がることとなったのでもありました。
本来の人間同士の関係は、痛みを伴うものです。誰かと関係を持つとき、私たちは喜び、そして、時に傷つけ、傷つけられる。それでも、その一つ一つを乗り越えていくところに、本当の関係が構築されていくのです。このコロナによって作られていった関係は、傷つくときは、すぐに関係を断ち切ることができる、とても薄っぺらいものとなってしまったのではないでしょうか。
そして、この新型コロナウイルスによる、もう一つの大きな問題は、「差別」が生まれているということです。感染した人は、まるで何の対策もせず、きちんと手洗いも消毒もしなかった悪い人であると思わせるものとなったのです。もちろん徹底して予防することは大切なことですが、それでも感染はしていきます。それなのに、感染者の予防は不十分で、その存在自体を否定し差別をしていくものとなったのです。
この「関係の断絶」と「差別」という二つの問題は、新型コロナウイルスという困難のなか起こったというよりも、この困難によって浮き彫りになって見えてきた問題だと言うことができるのです。このような問題は、もともと、この社会にあったのです。私たち人間は本来、他者と共に生きることができない。それが、わたしたち人間なのです。
3: 罪の中にとどまること
そして、だからこそ、そのような人間が、心からお互いに愛し合う者となるために、主イエス・キリストがこの世界に来られたのです。神様は、人間を愛してくださっています。神様はわたしたちのすべてを受け入れて下さいました。私たちをそのままの姿で愛してくださったのです。今日の聖書は、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」(1)と言います。「恵みが増すように罪の中にとどまろうとする」こと、それは、今の自分を肯定すること、もう少しわかりやすく言うと「自分はこのままでいい」とすることです。世間では、「そのままで大丈夫」「あなたはあなたのままで」とよく言われます。これも「自己肯定感」を持つために大切な言葉です。しかし、罪に生きる人間が、自分の欲望を抑制することなく、したいことをして、生きたいままに生きて、そのままでいたらこの社会は崩壊してしまうでしょう。実際に今、社会は権力者が自分のためだけに生きている、自分の保身ばかりを考えている。この社会は崩壊に向かっています。
神様は、確かにありのままの人間、私たちを愛してくださった。それが神様の愛、神様の恵みです。そして、だからこそ、私たちは、神様の愛、その恵みを受けて、キリストに結ばれた者として、変えられて、新しく歩きだしたいと思うのです。
私たちが他者を傷つけていくとき、そこには人間としての何かが足りないのではありません。私たちはどれほど努力をしても、本当に愛する者として成長することはできないのです。もちろん人を傷つけることは良いことではありません。しかし、そのために必要以上に自分を否定する必要もないのです。人間とは、そういうものなのです。しかし、だからこそ、神様は私たちに愛を与えてくださった。イエス・キリストの十字架において、愛を与えてくださったのです。私たちは、自分の力ではなく、この神の愛によって、変えられるのです。隣人を愛するために、私たちは、キリストに結ばれ、神様の愛を受け取るのです。
4: 新しい命に生きる
聖書は言います。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマ6:4-5)キリストの死。それは罪の死です。私たちの罪はキリストによって死んだのです。そして私たちはキリストの復活によって、新しい命に生きる者とされたのです。新しく生きる命は、人間の力によって、少しずつ得ていくものではありません。そこには大きな断絶があり、大きな決断があるのです。それは神様が人間を愛するという決断であり、人間がその愛を受け取るという決断です。新しく生きる。他者を愛する道。その道を歩き出すためには決断が必要です。それは神様の愛を受け取り生きるという決断です。
これから新しい一年が始まります。この新型コロナウイルスという困難の中、私たちは、何を目標に、何を目的として生きるのでしょうか。生活のスタイルが変わり、これからももっと変わっていくかもしれません。そのなかで、私たちは何を基準にして、何を捨て、何を残していきていくのでしょうか。聖書は、私たちに、ただキリストに結ばれた者として、神様の愛を受け取って生きる道を示しています。それは、人間が生きていきたい道を選ぶのではなく、神のみ言葉に聞き、神の御業を求めて生きる道です。この一年、私たちは、ただ主イエス・キリストに従い、その愛に繋がり、どのような困難のなかにあっても共に祈り合い、励まし合って歩んでいきましょう。(笠井元)