1: 中身のない信仰
今日の箇所は、福音書では唯一の、イエス様による否定的な奇跡の記事となっています。このイエス様の奇跡の記事を読まれた方から、「イエス様もひどいことされるのですね」と言われたことがあります。確かに、この物語を普通に読めば、お腹のすいたイエス様が、自分がいちじくの木を見つけて、いちじくを食べようと思ったけれど、実をつけていなかったので、機嫌を悪くされて、その木を枯らされてしまった、と読むでしょう。つまり、イエス様の機嫌を損ねると滅ぼされるという、とても恐ろしい話ともなるのです。
今日の箇所を読むときには、まず、この前の箇所、イエス様がエルサレムに来て、神殿の境内に入り、その神殿で商売をする者を追い出されたという記事の、その後にあるということを覚えておく必要があります。12節の箇所から、イエス様は、エルサレムの神殿で商売をする者を追い出し、その腰掛を倒され「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(21:13)と言われたのでした。今日の記事は、そのように、神様の前にあって、中身のない礼拝をしている人々を、このいちじくの木でたとえられ、「葉はつけているが、実をつけていないいちじくのようだ」とされたのです。つまり「見た目では見事にきれいに生い茂っているが、実際のところ、その中には何も実らせていない。」「中身のない信仰」を表されたのです。
2: 間違った読み方
今日のこの話は、間違えて読むと大変危険な方向に進んでしまう可能性のある記事でもあります。
今日の、この記事を読むうえで、気を付けなければならない一つのことは、イエス様は「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(22)と言いましたが、この言葉は、「祈り、求めるのなら、私たちは何でもできる」と思ってしまうということです。特に、ここではイエス様はいちじくの木を枯らされました。ここから読み取るならば、自分に気に入らなかったこと、自分の利益にならなかったこと、自分に敵対するものを、祈りによって枯らしてしまうこと、滅ぼしてしまうことができると読み取ることもできるのです。しかし、イエス様は、そのようなことを教えられているのではないのです。
まずイエス様は、自分のために奇跡を起こされたことはありません。聖書では、イエス様が食べ物を与えたこと、癒しをなされたという奇跡の記事がいくつもあります。しかし、イエス様は自分のためではなく、苦しむ人、痛みを持つ人のために、神様の御心のうちに、神の愛の業として、奇跡を起こされたのです。この時は、イエス様がエルサレムに来られ、間もなく十字架を迎える時でした。イエス様はこの十字架を迎える前に、神様にこのように祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)「わたしの願い通りではなく、御心のままに」。これがイエス様の祈りの姿勢です。イエス様は、自分の利益を求め、自分が苦しむことを取り除くことではなく、「神様の御心」を求めたのでした。私たちの祈り、祈りのうちに求めるものは、自分の利益にならないものを滅ぼすことではなく、神様の御心を求めることなのです。
またもう一つ気を付けなければならないことは、イエス様は「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」(21:21)と言われました。ここから、神様が求められているのは、完全な信仰であり、私たちが立派な者にならなければならないと思ってしまうことです。この記事では、疑いのない信仰を持てば、山に「立ち上がって、海に飛び込め」ということができるようになる。つまり人間の力を超えた力を持つことができるようにもなると聞こえるのです。そのため、完全な信仰があれば何でもできる。完全な信仰を持つ者とならなければならない・・・と読んでしまうことがあります。
私が小学生の頃、教会の友人は「自分はまだ山を動かすことができない。どうすれば山が動くほどになれるかな・・・どうしても完全に100パーセント神様を信じることができない。どうしよう。もっと神様を信じなければ・・・」と純粋に神様に従い生きていきたいと願い、悩んでいた友人がいました。しかし、ここでは、人間がすごい力を持つことを求められているのではないのです。ここでイエス様が教えられているのは、私たちの祈りを、神様は受け止めてくださり、神様は私たちの思いを超えて働いてくださるということです。神様の御心、それは、私たちの思いを超えた、まるで山が海に飛び込むように、人間の常識を超えたところにあるのです。
また、もうひとつ気を付けなければならないことは、この記事から、特別な人間になることを求めてしまうということです。ある一部の人の祈りは大きな力を持つとしてしまうことです。「あの人が祈るなら聞かれるだろう」とか「自分の祈りなんて聞かれない」と、または、「わたしが祈りは、あなたよりも神様がよく聞いているから、私が祈ってあげましょう」など信仰と祈りに差をつけてしまうという間違えです。神様は、すべての人間と同じように関わり、すべての人間の声を同じように聴き、すべての人間を同じように愛してくださっているのです。そこに違いはないし、差もないのです。
3: 実を結ぶこと
今日の記事、イエス様の奇跡と言葉は、信仰、祈りに対する励ましの言葉です。イエス様は枯れる者となることではなく、実を結ぶ者となることを願っておられます。実を結ぶこと、それは私たちが立派な行いをすること、素晴らしい人間になることではありません。ただ、神様の御心を求めて生きることなのです。イエス様はここで、いちじくの木を枯らせました。そして、先ほども言いましたが、ここではこのいちじくの木が表すように、中身のない信仰に生きていた人々を神殿から追い出したのでした。そして、それは私たちも何も変わらないときがるのではないでしょうか。同じように、私たちもまた、中身がスカスカの時もあれば、実をつけることのない木のように生きていることがあるのです。わたしたちには100パーセントの信仰を持つことはできないのです。
しかし、神様は、そのような人間を滅ぼされはしなかったのです。神様が滅ぼされた者、それはイエス・キリストご自身なのです。信じて疑わず、完全なる信仰、100パーセントの信仰を持っていた、ただ一人の者。神の子イエス・キリストが、その滅びを一手に引き受けられ、十字架の上で死なれたのでした。そして、このイエス・キリストの死につながることによって、私たち人間は実を結ぶ者とされたのです。私たちが実を結ぶこと。それは、ただ、このイエス・キリストによる愛を受け取ること、そしてそこに留まることによって、私たちは実を結ぶ者とされるのです。
4: 祈り
今日の記事では、いちじくの木を枯らしたイエス様がいました。この記事は、命を滅ぼすことが出来るイエス様を表すと同時に、イエス様は命を生かすことも出来る方であることを表しているのでもあります。生きている者はいずれ死に、神様の御許に引き上げられます。このいちじくの木も、イエス様が枯らすことがなくても、このあとどれほど大きく成長したとしても、いずれは枯れていったでしょう。しかし、イエス・キリストは、この木を枯らすだけではなく、そしてもう一度、そこに葉をつけ実をならせることができる方なのです。同じように、一度滅びに入れられた人間に、もう一度命を与えることもできるのです。そのためにイエス・キリストは、自らの命を捨てられたのです。私たちが本当の命、本当の愛につながるために、イエス・キリストは、その命を懸けてその道を開いてくださったのです。
わたしたちは、このイエス・キリストによる恵みを受け取り、神様に祈って歩んでいきたいと思います。祈る時、私たちは何を祈ることも許されています。「あれをしてほしい」「これをしてほしい」「助けてください」「どうにかしてください」と祈ってよいのです。何を祈っても、神様に叫ぶことも許されている。ただ、私たちは、この祈りのうちに、神様を見つめ、神様が何をされたいのか、神様の御心がどこにあるのかを求めていきたいと思うのです。神様は、私たちの思いを超えて、私たちの祈りを超えて働いてくださるのです。この神様の働きに期待しましょう。私たちは、どのような時にあっても、ただ祈り、祈り続けて歩んでいきたいと思います。(笠井元)