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2021.1.17 「隣人へのまなざし」(全文) ルカによる福音書10:30-37

1、永遠を思う心

 皆さんは、心にぽっかり穴が開いたような虚無感に襲われたことがあるでしょうか。私は中学生になった頃、そんな体験をしました。なぜ私はここにいるのか。自分はこれからどこに向かって歩んでいくのかと、初めて命のことや人生の意義を考えるようになりました。なぜ人間は命の意味やその行き先を気になるのでしょうか。「何事にも時がある」という聖書の言葉がありますが、その続きとして、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレト3:11)があります。つまり、私たちの人生には様々な時、時期があります。しかし人間はその時々をただ過ごせばいいというふうに造れた存在ではなく、永遠を思う心を持つ存在として造られたと聖書は言うのです。人間は、偶然に生まれてきて、その時々を目的なく生き、亡くなれば後は何も残らない、という考えに耐えられない存在、だから永遠を思うのです。「永遠」とは何でしょうか。「永遠」はこの世の時間を永遠に生きることではなく、時間を支配しておられる神ことなのです。

 

2、永遠の命に巡る論争

永遠の命、これは私だけが関心を持つテーマではないはずです。イエス・キリストが伝道される時代、永遠の命、すなわち神の命を受け継ぐ条件に巡る論争が律法学者とイエスとの間で展開されました。律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエスに問いただしたのですが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返され、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛せば、永遠の命を得ることができる」(申命記6:4)と自ら答えを出すことになりました。続いて彼は更に「わたしの隣人とは誰か」と問いかけましたが、イエスはたとえを用いて答えを示そうとされました。

当時のヘレニズム世界において、神を敬うことと隣人を愛することは一つの倫理の両側面とされていましたが、「隣人」がどういう人を指すのかは、詳しく示すものがありませんでした。また、ユダヤ人やパレスチナ在住の人を含め、古代ユダヤ教は、民族主義の高まりとともに、他の民族の人を隣人から排除した歴史もあります。そこでイエスはサマリア人のたとえを紹介し、ユダヤ人律法学者にとって敵であるはずのサマリア人がユダヤ人を苦しみから救って愛したと語り、敵も味方もなく愛する姿勢を示したと思われます。

「善いサマリア人」のたとえをもう少し見ていきましょう。ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われました。エルサレムからエリコまでは20数キロメートルの距離がありますが、その道は砂漠同然の荒れ地です。追いはぎに襲われた「ある人」は状況からユダヤ人だと思われますが、イエスは意図的に何民族と語られていません。サマリア人は襲われた人が何民族だから助けたというのでないからでしょう。追いはぎに殴りつけられ、半殺しにされた人を最初に見た祭司とレビ人の二人は、見て見ぬふりをして道の向こう側を通って行き、サマリア人だけが近寄ってきました。そして次の一連の行動を取られました。「傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。更に翌日にデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」。傷をぶどう酒で洗い、油(オリーブ油)を注ぐというのは、当時の処方です。デナリオン銀貨二枚は、労働者二日分の給料です。律法の専門家は「誰が私の愛すべき隣人か」と問いただしたのに対して、イエスは、誰がどの程度誰を如何に愛すべきかではなく、誰でも困る人には区別なく愛せよと、そして「行って、あなたもおなじようにしない」と愛による行動を促したのです。

 

3、隣人へのまなざし

 しかし現代において、多様な社会に生きる私たちは、困っている誰かを助ける時に、はやり色んな複雑な課題に直面してしまいます。例えば、困っているように見える人を助けようとして話しかけたら、有難い迷惑だと断られ、嫌われることがあります。あるいは、困っている人を助けようとした自分の行為が結果的に望ましくない結果となり、責任を問われることもあります。また、町で失業者を装ってお金を騙す人もいます。私が専門学校に通っていた頃、町でそのような人と出会ったことがあります。困っている人を助け、その隣人になるために、精力や時間、勇気や知恵が必要なのです。迷ってしまうのも当たり前です。しかし、迷っているからと言って、諦めるのではなく、その人の良い助け手となるために、知識を習得し、神様に知恵を求めることが必要です。何より、サマリア人の持つ愛の心が必要なのです。

 「良きサマリア人のたとえ」では、追いはぎに襲われた人を助けたサマリア人の一連の行動を起こさせる内的な動機を注目したいと思います。33節「旅をしていたサマリア人は、その人を見て憐れに思い」とあります。「憐れ」のヘブライ語は「ラハミーム」で、この言葉は「子宮」「母胎」を意味する「レヘム」から由来します。サマリア人は傍観者のように「かわいそうに」と憐れむのではなく、はらわたが動かされるほど、傷ついたものを深く憐れんでくださったのです。知り合いでも、家族でもない人に対してこのような気持ち、心を果たして簡単に持つことができるでしょうか。

 私は、2016年広島教会に赴任した頃、教会の仕事をしながら自動車免許を取ることにしました。技能試験がうまくいかず、受けては落ちての繰り返しでした。免許取得するのに半年もかかりましたが、受けた教習の中に、最も印象に残っているのは「応急救護」という特定教習でした。ある日の夕方、教習所でゴム人形がたくさん並べられている、不気味な部屋まで案内され、講師の先生は、次のことを説明しながら、模擬人体装置を使って心臓マッサージと人口呼吸の行い方を教えてくれました。「人は交通事故に遭った場合、心臓停止では3分間放置されると死亡率が約50%に、呼吸停止では10分間放置されると死亡率が50%になります。つまり、その間に適切な救護をすることが重要。応急救護措置に対する知識と技術を習得し、事故現場において迅速な措置を取るによって傷病者の救命率を高めることができます」。続いて、先生は「皆さんの目の前にあるのは尊い命です。いや、目の前にいる人は、あなたたちのお母さんやお父さん、恋人だと考えてください。大切な人の命を救うために一刻も早く救助措置を取りなさい。はい、用意、スタート!」早く合格したい私は目をつぶし、思い切って「お母さん、しっかりして」と心の中で叫びながら、ゴム人形の鼻をつかんで、口から一生懸命空気を送り込みました。先生の言葉から刺激を受けた私と二人の学生が無事に合格したのですが、一人の若い男の子が戸惑いの表情を見せながらじっと座っていました。「なぜやらないの?あなたにとって大切な人がいないの」と先生はその子に聞くと、「はい、いない」とその子が小さな声で返事しました。部屋の中が急にシーンとなりました。あの瞬間、この子のことを決して責めることができない、と私はそう思いました。なぜなら、あの子もまた心の傷を負い、誰かの助けを必要としている孤独な人なのかもしれない、誰かが愛のまなざしを送ってくれるのを、今待っているのかもしれないとそう思ったからです。

4、神の恵みにとどまる

 

 その子は一体なぜ「自分にとって大切な人がいない」と答えたか、私にはわかりません。当時私が考えたことは、あくまでも一つの仮説に過ぎません。しかし、確かに言えることがあります。人は大切にしてもらった経験がなければ、誰かを大切に思ったり、助けたりすることができないということです。あの追い剥ぎに襲われ、傷ついた人は、私たちのことではありませんか。人生を生きる過程において、様々な不条理に傷つき、涙し、苦しむ時があります。大きな壁にぶつかって心が折れそうになってしまう時、二度と立ち直らないかもしれないと、孤立無援感や絶望感を覚える時もあります。コロナが流行している今の時代だってそうです。不条理、失望感、閉塞感、不満、憎悪、ストレスなどが、私たちの人間性を蝕んで、心の免疫力を低下させていきます。隣人を愛し、助けようとするどころか、命を憎み、あの人を不幸にしよう、この人を傷つけてやろうと思ってしまう時さえあります。しかし、イエス様は、そんな罪の状態に陥りやすい私たち人間のことを憐れに思い、私たちの心の傷を癒し、代価を払うまで良い宿屋や世話人まで見つけてくださいました。イエス様こそ、善きサマリア人であり、私たちの隣人なのです。イエス様の愛に気付き、その恵みの下にとどまって生きていきましょう。神の恵みと愛に助けられ、癒された私たちはいつかきっと誰かの隣人となり、神様の命、永遠の命を受け継ぐ者となるでしょう。(劉雯竹)