1、永遠を思う心
人間は、偶然に生まれてきて、その時々を目的なく生きる存在ではなく、永遠を思う心を与えられ、神に造られた存在です。(コヘレト3:11)「永遠」とは、この世の時間を永遠に生きることではなく、時間を支配しておられる神様のことです。
2、永遠の命に巡る論争
遠い昔、永遠の命、すなわち神の命を受け継ぐ条件に巡る論争が律法学者とイエスとの間で展開されました。律法学者は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛せば、永遠の命を得ることができる」(申命記6:4)と答えを出すのですが、「わたしの隣人とは誰か」とイエスに問いただしました。イエスはサマリア人のたとえを紹介し、ユダヤ人律法学者にとって、敵であるはずのサマリア人がユダヤ人を苦しみから救って愛したと語り、敵も味方もなく愛する姿勢を示しました。そして、「行って、あなたもおなじようにしない」と愛による行動を促したのです。
3、隣人へのまなざし
「良きサマリア人のたとえ」では、追いはぎに襲われた人を助けたサマリア人の一連の行動を起こさせる内的な動機を注目しておきたいです。33節「旅をしていたサマリア人は、その人を見て憐れに思い」とあります。「憐れ」のヘブライ語は「ラハミーム」で、この言葉は「子宮」「母胎」を意味する「レヘム」から由来します。サマリア人は傍観者のように「かわいそうに」と憐れむのではなく、はらわたが動かされるほど、傷ついたものを深く憐れんでくださったのです。
4、神の恵みにとどまる
私たちもまた追い剥ぎに襲われた人のように、傷つき、孤立無援感や絶望感、痛みを覚える時があります。しかしあのサマリア人のように、イエス様が常に私たちに愛のまなざしを送ってくださり、自ら私たちの隣人になってくださいます。そのイエス様の愛のまなざしと恵みの下にとどまりましょう。イエス様に愛されていることに気づいた私たちがいつかきっと、誰かの隣人になり、永遠の命に生きる人になると信じています。(劉雯竹)