東福岡教会

Instagram

特別集会

子どもクリスマス会

12月21日(土)

13:30~15:00

クリスマス礼拝

12月22日(日)

11:00~12:00

クリスマス・イブ礼拝

12月24日(火)

19:30~21:00

 

東福岡幼稚園

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


アクセスカウンター カウンターカフェ

2021.1.24 「あなたは誰に従うのか」(全文) マタイによる福音書21:23-27

 

1:  権威

 今日の箇所では、神殿の境内で教えられているイエス様に対して、祭司長や民の長老たちは「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(23)と尋ねたのです。 ユダヤの「権威」は「律法」であり、それは本来「神様から頂いた、神様の愛を表して生きるための教え」です。祭司長たち、また律法学者は、この律法を通して、神様の愛をいただき、またその愛する神様に従うことを、人々に教えるという立場にあったのです。しかし、このイエス様の時代において、律法は「ユダヤの伝統的な制度」となっていたということができるのです。祭司長、律法学者は、神様の愛をいただくということから、むしろその律法を一つの制度としての権威としていたのです。つまり、神様からの律法を神様の愛の権威ではなく、自分たちの地位や権力を保つための権威としたのです。

 そのようなユダヤの社会に、イエスという人が現れたのです。イエス様は、マタイ5章から語られている、山上の説教では「今、ここでは律法を振りかざして、このように言われている、しかし、本当の律法の意味はこうこうである」と言われました。つまり、人々に、神様の愛は、ただ律法を守ること、従うことではなく、律法の伝える神様の愛に従うことだと教えられたのでした。このイエス様の働きと言葉は、律法に縛られている人々の心を動かしました。そして、だからこそ、律法という権威をもって、人々を支配していた祭司長、律法学者たちにとってみれば、イエス様は、自分たちの地位を揺るがす危険な人物、邪魔者であったのです。

そのような中、祭司長や民の長老たちは「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(23)と尋ねたのです。この祭司長たちの問いは、真実を知るために尋ねたのではなく、自分たちの権威を揺るがす、イエス様を殺すため、イエス様が何か間違ったことを言わないか考えて尋ねた、まさに罠としての質問であったのです。

 

2:  三つの答え

「だれがその権威を与えたのか。」この問いに対する答えを大きく分ければ3つ、一つは神様、もう一つはサタン、もう一つは人間という三つの答えがあっただろうとされます。この世において、私たちを支配する軍事力や財力といったものによる権威は、人間からのものと言うことができるでしょう。もう少し深く考えると、それは人間を動かすサタンからとも言うことができるでしょう。ある意味、この世はサタンに操られた人間が造りだした権威によって支配されているのです。

この時、イエス様の時代におけるユダヤの社会を秩序づける権威は「律法」でした。律法とは神様から与えられた権威でした。しかし、それを人間からのものとしてしまったのが当時の律法主義でした。このような律法主義の中で、祭司長たちは、イエス様の力、業は「サタン」「悪霊」によるものだと考えていたのです。マタイの9章、12章では、イエス様の癒しの業を見たファリサイ派の人々は「これは悪霊の頭によるものだ」(マタイ9:3412:24)と言っているのです。人々は、イエス様のこれまでの宣教の言葉、癒しの業、そしてこの箇所の前で言えば、エルサレムの神殿に王のように入城し、神殿から商売人を追い出したという行為、それらは、悪霊の頭によるものだと考えていたのです。

祭司長たちは、すでに12章からイエス様を殺す機会を狙っていたました。その中で、この問いに対してイエス様が何か殺す理由になる答えをしないかと考えていたのです。つまり、「だれがその権威を与えたのか」。これは祭司長たちによる罠でした。祭司長たちは、真実を求めていたのではなく、イエス様を殺すために、イエス様に「何の権威で、誰の権威であなたはこのようなことをしているのか」と尋ねたのでした。

 

3:  わたしたちが従う権威とは

イエス様は24節からこのように答えます。【21:24 「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」】(21:24-25)罠をしかけた祭司長たちの言葉に、イエス様はこのように答えられました。イエス様のこの答えは、罠から上手に回避するための答えであったように見えます。しかし。この答えは、そのような計略的なものではないのです。イエス様は、「あなたは何の権威、誰の権威に従っているのか」と、この祭司長たちに真剣に問いかけているのです。

「あなたは何の権威、誰の権威に従っているのか」この問いは、今、わたしたちにも問われているものです。私たちは何の権威、誰の権威に従っているのでしょうか。皆さんはこの問いに対してどのように答えるでしょうか。「神様からの愛に基づく権威」に従っているでしょうか。それとも人間の関係を支配関係にし、関係を引き裂く、「人間」「サタン」からの権威に従っているでしょうか。

この時、祭司長たちは、イエス様の言葉に、正面から真剣に向き合うことはありませんでした。実際、祭司長たちにとっては、バプテスマのヨハネの権威はどこからなのか、天からか、それとも人間からか、それはどうでもよいこととなっていたのです。人々は、そのことにきちんと答えるのではなく、どう答えることが、自分のためになるのか、自分の権威、自分の立場を保つことができるのかと考えていたのです。つまり、この祭司長たちの生きる基準、生きる指針は、「自分のため」でしかなかったのです。

皆さんはいかがでしょうか。イエス様の問い、「あなたは何の権威、誰の権威に従っているのか」。それは、「あなたは、何を求め、何を基準に生きているのか。あなたは何をもって判断し、何を信じて生きているのか」と問われているのです。

 

4:  イエス・キリストが従った権威

イエス様ご自身は、このとき、祭司長たちには答えませんでしたが、イエス・キリストの生きた道、それは神様からの権威に従い、神様の御心を求めて生きた道でした。そして、その道を進む中、イエス・キリストは十字架への道を歩む事となったのでした。ルターは、「神様から出たものは、地上では受け入れられず、地上では十字架につけられる。それが神様に従う道である」と言いました。神様の御心を求め、神様に従い生きる道。「自分のため」ではなく、「隣人のために生きる道」。それはこの世界にあっては苦しみの道となるのです。そして、だからこそ、この世では、人間の権威を求めるように誘惑されるのです。自分が苦しまない道、隣人のために痛みを受ける道より、自分が正しい、自分は間違っていないとされる道を選んでしまう。それが人間の弱さです。人間は、そのように自分を守ること、自分は正しいとされる道に誘惑されるのです。

 

私たちは、今、このイエス・キリストの問いに真剣に向き合いたいと思うのです。神様からの権威に従ったイエス・キリストは、十字架において、私たち人間の主となられたのです。つまり、主は自らの命をかけて、私たちに生きる道、生き方を示された。それは、隣人を愛する道。隣人のために、苦しみ、痛みを分かち合う道です。私たちは、どのような時にあっても、このイエス・キリストの問い「あなた今、何に従っているのか」「あなたの主は誰なのか」という問いに真剣に向かい合い、その答えとして、神様の愛の権威に従っていきましょう。(笠井元)