1: 権威
祭司長や民の長老たちはイエス様に「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(23)と尋ねたのです。ユダヤの「権威」は「律法」であり、それは本来「神様から頂いた、神様の愛を表すための教え」です。しかし、祭司長たちは、律法を自分たちの地位や権力を保つための権威としたのです。
そのような社会に、イエスという人が現れたのです。イエス様は、人々にただ律法を守ることではなく、律法の伝える神様の愛に従うことを教えられたのでした。このイエス様の働きと言葉は、律法という権威をもって人々を支配していた祭司長たちにとってみれば邪魔なものだったのです。
2: 三つの答え
「だれがその権威を与えたのか。」この問いに対する答えは「神様」「サタン」「人間」という三つの答えがあっただろうとされます。祭司長たちは、イエス様の力、業は「サタン」によるものだと考えていたのです。「これは悪霊の頭によるものだ」(マタイ9:34、12:24)と言っているのです。「だれがその権威を与えたのか。」これは祭司長たちによる罠でした。祭司長たちは、真実を求めていたのではなく、イエス様を殺すために尋ねたのでした。
3: わたしたちが従う権威とは
イエス様は祭司長たちの言葉に直接答えられるのではなく、イエス様からヨハネのバプテスマはどこからきたものなのかを尋ねられたのです。イエス様の答えは計略的なものではないのです。イエス様は「あなたは何の権威、誰の権威に従っているのか」と、この祭司長たちに真剣に問いかけているのです。この問いは、今、私たちにも問われているものです。私たちは誰の権威に従っているのでしょうか。
人々は、この問いに真剣に向き合うのではなく、ただどう答えることが自分のためになるのか、自分の権威、自分の立場を保つことができるのかと考えていたのです。
4: イエス・キリストが従った権威
イエス・キリストの生きた道、それは神様からの愛の権威に従い、神様の御心を求めて生きた道でした。そして、その道を進む中イエス・キリストは十字架への道を歩んだのです。神様の御心を求め、神様に従い生きる道。それはこの世界にあっては苦しみの道となるのです。私たちはイエス・キリストの問いに真剣に向き合い、ただ神様に従い歩み続けたいと思うのです。(笠井元)