1: 神様を賛美する
今日の箇所は、まず「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」(1:3)と、神様への賛美から始まります。エフェソ書は6章からなるもので、それほど長い文書ではありません。しかし、その中でも、今日の箇所も含め、キリスト教にとってとても大切なことが記されています。今日の箇所では、「創造主なる神」と「贖い主なる子、キリスト」、そして13節では「救いをもたらし、保証する聖霊」として、いわゆるキリスト教の三位一体という考えの原点ともなる箇所の一つが記されているのです。また、2:11からは小見出しに「キリストにおいて一つとなる」とあるように、エフェソ書では、キリストによる一致を強く語ります。それは当時の教会には、「一致」ではなく、「分裂」があったということでしょう。エフェソ5章では【あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。】(5:8)と語られます。つまり、この時、人々は光から離れてしまい、暗闇の中に入っていってしまった。だからこそ、もう一度、光の子として歩む事を勧めているのです。これらを通して教える、中心にある教えは、神様の愛を受けて、神様を賛美して生きることなのです。今日の箇所では、まず神様を賛美します。そしてそれは、このエフェソ書全体の中心の教え、恵みなのです。
2: 運命論と因果応報
先日、わたしのところに一つの相談がありました。内容はこのようなものでした。「自分には不幸なことばかり起こる。小学校の時から何度もいじめられ、そのため、今もだれかと話すことはうまくできなくなった。それは自分が何か悪いことをしたからでしょうか。もちろん自分も完全な人間ではないのですが、それほど悪いことばかりをしてきたわけではありません。むしろ自分をいじめた人のほうが、悪いことばかりをしている。自分は生まれたときから、人にいじめられ、不幸に生きる運命なのでしょうか。それとも自分が悪いことをしたから、悪いことが起こるのでしょうか。私をいじめた人は、人をいじめても、楽しく幸せに生きると決まっていたのでしょうか。
なんで悪いことをしても幸せそうに生きているのでしょうか」ということでした。
この方は、今の自分は不幸であるが、過去の自分の行いを見るならばこれほど苦しみを受けるのはおかしい、不公平だ。神様は生まれる前から人間をそのように、幸福になる人、不幸になる人と運命づけているのか。それも納得はできない。神様は、不公平だと言われているのです。
私たち人間には、変えることのできない現実が迫ってきます。現在は、世界中に新型コロナウイルスの感染が広がり、多くの人々が苦しんでいます。病気や災害や事故。私たちの人生には、予期せぬ苦しみが突然襲ってくることがある。そしてこのような突然の出来事が起こるとき、人間はそれを「運命」とすることがあります。どうすることもできず、定められている道。人間の力ではどうすることもできない力によって迫る現実を「運命」とするのです。そして、またその逆に、自分の行ったことが自分に返ってくる。良いこと、悪いこと、どちらが起こったとしても、そのすべてには、もととなる自分の行い、またはその家族や先祖、そのような人間の行為が原因として、物事が起こっている。このように考えるのが「因果応報」と言います。
先ほどの相談では、自分に今起こっている苦しみは、「運命」か、それとも「因果応報」かと尋ねられ、「運命」であれば、神様は不公平だとし、「因果応報」であれば、自分より悪いのに、幸せそうに生きている人がたくさんいる、これも不公平だとしているのです。私自身、自分も生まれながらに大きな病気をもっていますので、この神様の不公平感はよく感じてきました。皆さんはいかがでしょうか。神様はなんて不公平な方なのかと思ったことはないでしょうか。
3: 神の選び
キリスト教では、この「運命」「因果応報」という考えに近い考えとして「予定論」というものがあります。よく福音派の教会で言われているのは、同じ説教、同じみ言葉を聞いていながらも、信じる人、信じない人がいる。それは、人間には選ばれた人、捨てられた人がいて、神様のみ言葉を受け入れ信じる者は、最初から選ばれた人であり、そのみ言葉を信じない者は、もともと、神様から捨てられた人であるということです。これは、わたしが信仰者として生きてきた中で、納得できなかった考えの一つです。この考えが、もっと熱狂的な考えになると、まるで脅迫するかのように、「イエス・キリストを信じなさい。信じないあなたは神様に捨てられてしまうのです。それが嫌なら信じなさい」とすることもあります。
しかし、今日のエフェソ書ではこのように言います。【天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。】(1:4-5)確かに、神様は人間を選ばれました。しかし、それはだれかが選ばれ、だれかが捨てられるというものではなく、ただ一人、神の御子イエス・キリストによって、天地創造の前に、すべての人間が選び出されたのです。神様は御子イエス・キリストによって、私たちすべての人間を神の子とされたのです。続けて聖書はこのように言います。【わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。】(1:7)
神はキリストにおいてすべての人間を救いに選ばれた。イエス・キリストの十字架によって、すべての人間を聖なる、汚れのない者とされたのです。神様は、人間を愛することを決断されたのです。これは、「運命」でもなければ「因果応報」、または誰かが選ばれ、誰かが捨てられるという「予定論」という考えでもありません。神様の人間の選び、それは神の愛による「意志」と「決断」の出来事なのです。
4: 救いを受け取る
幼稚園ではいつも朝礼のときにマザー・テレサの『日々の言葉』を読んでいます。その中で、昨年の12月17日の言葉でこのようなものがありました。少し省略しますが・・・【ヒンズー教の女性がやってきて、3歳になる口の利けない自分の息子のために、私の祝福を求めました。私は彼女に尋ねました。「何か、あなたにとってとても捨てがたい大事なものがありますか?」その母親は答えました。「ええ、噛みタバコです。」「それを、あなたの犠牲として神にささげなさい。そして祈りなさい」と私は言いました。・・・】
この言葉の意味は、これはただ病気が回復をするために何かを手放すことではなく、自分の心の中心に、神様を迎え入れることを求めているのではないかと思うのです。
私たちは、みんな何かしら大事なものを持っていると思います。私にとっては趣味で集めたサッカーボールやギターなどでしょうか。皆さんにもこれは手放したくないというものがあると思います。皆さんは、今、何を握りしめているでしょうか。日常生活のなかで、先ほどの女性の「噛みタバコ」のようにいつも手に握りしめているものがあるのではないでしょうか。そして、それらを手に入れたときに喜び、手放すとき、失うときに悲しみ、苦しくなるのです。皆さんは何を得るときに喜び、何を手放すときに悲しんでいるでしょうか。そのような私たちが一番大切にしているものを手放し、神に祈ること。神様に目を向けるとき、私たちは、神様の愛を知るのです。
私たちの人生には、良いこともあれば悪いことも起こります。予想外のこと、「なんでですか」と思うことも起こるのです。しかし、どのような時も、天地創造の前から、神様はイエス・キリストを通して、私たちを愛されているという事実は変わることはありません。私たちはこの神様の愛に目を向けて、神様が共にいてくださるという恵みを受け取っていきたいと思います。
最後に10節~12節をお読みします。【こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。】(1:10-12)
私たちは主イエス・キリストの十字架により、神様の救いに選び出されたのです。私たちはその頭であるイエス・キリストに繋がり、その愛によって一つとされていきましょう。そしてそこに神の愛、神様の平和が表されるように、祈り、歩んでいきたいと思います。(笠井元)