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2021.2.7 「完全ではなく、悔い改めることを」(全文) マタイによる福音書21:28-32

1:  口語訳と新共同訳の違い

 まず今日の箇所を読み解いていく前に、この箇所における一つの問題から見ていきたいと思うのです。今日の箇所を読むときに、昔から聖書を読んでおられる方は、もしかしたら大きな違和感を覚えるかもしれません。この箇所は口語訳と新共同訳では大きな違いがあるのです。口語訳のほうを一度読んでみたいと思います。

【あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。」】(口語訳マタイ21:28-32)

 違いは判りましたでしょうか。新共同訳と口語訳では、兄と弟が、逆の返事と行為を行っているのです。つまり、新共同訳では父の言葉に対して、兄が「いやです」と答えながらも心を入れ替えて出かけていき、弟は「承知しました」と答えながら行わなかったのです。それに対して、口語訳では、兄が「承知しました」と言いながら行わず、弟が「いやです」と答えながら心を入れ替えて、出かけて行ったのでした。ちなみに、新改訳聖書は口語訳と同じように訳され、2018年に出版された聖書協会共同訳聖書では、新共同訳と同じように訳されています。

 

2:  欠けている人間

 この新共同訳と口語訳の違いと、その理解の仕方はとても大切なことです。ただ、どちらにしても、この箇所が語っていることは、「いやです」と答えた者が心を入れ替えて出かけて行ったということなのです。ここで一つ考えておきたいことは、本当は、最初から「承知しました」と答え、そして「出かけていった」者ではないかと思うのです。わたしは性格がひねくれているのか、何かを頼まれると、どうしても「いやです」と答えてしまいます。「なんで最初から『はい』と言えないの」とよく言われます。最初から「はい」「承知しました」と答え、そして行えれば、それが一番でしょう。しかし、ここでは、「はい」と答えた者は行わず、「いいえ」といった者が心を入れ替えて行ったのです。

ここから、まず私たち人間の弱さを学びたいと思うのです。人間に完全な者はいない。完全な信仰を持っている人はいないのです。私たちはどこかで欠けている部分があり、どこかで弱さを持っている者です。ある神学者は「すべての人間が障がい者である」と言ったのですが、人間はすべての人間が、欠けている部分がある。「良い」ところがあり「悪い」ところもあるのです。 そして、それを人間の個性というのでしょう。私たちは欠け、弱さ、個性、違いを持っている。神様から与えられているのです。このとき、イエス様は祭司長、民の長老たちのことを、「承知しました」と言いながらも、従って行わなかった者としています。

 当時の祭司長たちは、神様の与えられたユダヤの律法に従い生きていました。そのような意味で、祭司長たちは、神様に従うことから外れてしまおうとしていたのではないのです。しかし、その祭司長たちの間違えは、自分は律法を守ることで、正しく生きていると信じていたということです。 イエス様が言われているのは、その自分は間違っていない、正しく神様に従っているという道こそが間違っていると教えられているのです。ここでは、32節において【なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。】(マタイ21:32)と言われます。

祭司長、長老たちは、自分は正しい、正しく神様に従っていると信じていたのです。そのため、考え直すことをしなかったのです。ここでは、考え直すこと、悔い改めることの大切さを教えているのです。人間には欠け、欠点、弱いところがある。だから完全な信仰に生きるということはないのです。そして、だからこそ、私たちは日々、考え直し、悔い改め、新しくされるのです。そこに本当の信仰が始まるのでしょう。これは、今の私たちにも向けられています。私たちは今、自分は間違っていない、自分は正しいと思い込んでいないでしょうか。イエス様は、私たちに考え直すこと、つまり悔い改めることの大切さ、日々新しくされて生きることの大切さを教えられているのです。

 

3:  人間が求める新しさ

 日々新しく、日々前に進む事。それは、私たちが生きるこの社会も同じように、日々新しくなろうとしているのです。アップデート、更新とも言いますが、パソコン、ケータイ、スマホは日々更新しています。パソコンを使っていると、時々アップデートのデータが送ってきます。この社会では科学技術、医療、経済、教育も、止まることなく、日々進化しようとしているのです。それは、良く言えば、より良く生きるため、便利な生活を送るためかもしれませんが、しかし、その先、最終的に求めているものは何なのでしょうか。その究極的目標、それは完全な者となること。自分は正しい。そしてその思いは、最終的には自分が神様となることにつながるのです。

 

4:  悔い改めることを

 イエス様は、そのような人間社会、私たち人間に、「あなたは間違っている」「あなたは欠けている」そして、「それを受け入れなさい。そして悔い改めなさい」と教えて下さっているのです。イエス様は、人間が、完全になることではなく、考え直す者となること、悔い改めることを求められているのです。考え直すこと、悔い改めることは、とても勇気と力がいることです。

「わたしは間違っていない」「わたしは正しい」というところから、「わたしは間違える」「わたしは悔い改めなければならない」となるためには、本当に正しい方、完全者である神様に出会い、神様の前に立つことが必要です。そして、神様に出会う「恐れ」「恐怖」を持つときに、私たちは、イエス・キリストの愛を必要とする。そして、イエス・キリストの愛から、悔い改める力と勇気をいただくのです。

 

 今は、新型コロナウイルスの感染拡大によって、判断がとても難しい場面に何度もぶつかっています。私たちの教会では、先週から動画の配信を始め、今日は、動画のライブ配信をしています。 どのようにすることが正しいのか。それは誰も答えられません。

 自分は正しい。いや、自分は間違っているのではないか。・・・その思いから、悔い改めよう、新しい道を歩もうと方向転換をして、心を入れ替えていくことは、とても勇気のいることです。

神様は、そのような私たちに、信仰において新しくなるため、日々、神様に目を向け、どうすることが本当に神様の御心なのかを追い求めなさいと教えられているのです。私たちが完全になることはありません。しかし、そのような人間を神様はイエス・キリストを通して、愛してくださっているのです。私たちが覚えるべきことは、この神様に愛されている者として、自分の弱さを認め、それでも愛してくださっている神様に従う道を、日々選び取っていくことです。信仰。それは、日々悔い改めること。日々考え直すことです。私たちは、何が正しくて、何が間違っているのかを、日々考え、日々悔い改めて、神様に従う者として歩んでいきたいと思います。 (笠井元)