「しばらくすると」という言葉がヨハネ16:16~24に7回も登場しています。ヨハネ福音書は「しばらく」の福音書とでも言ってよいでしょうか?
1.「しばらくすると」
「しばらく」とは「久しぶりであるさま」あるいは「ほんの少しの間」「しばし」を意味します。ギリシヤ語の「しばらくすると」は「ミクロン」という言葉です。1ミクロンは0.0001センチです。「ミクロン」は本当に短い瞬間を意味します。「しばらくすると」という時の長さは多分人それぞれの感受性によるでしょう。感性を超えて確かなことは、主イエスの死と復活の間、別離の時はほんのわずかな時だったということです。「しばらくすると」イエス様が目に見えなくなり、また、しばらくするとイエス様を見るようになるのです。
2.別離は出会いの始まりである
弟子たちは自分の力でイエス様を捉えようとしていました。しかし、人間が人間の側から神をつかむのではなく、神ご自身が人間をつかむのです。この逆転が起こるためには、弟子たちは主イエスとの辛い、厳しい「別離」・「お別れ」を経験しなくてはならなかったのです。聖霊による新しい出会いは人間側からの別離・断絶を経なければならないのです。当座は、この出会いのためには辛く、悲しい別れが必要であり、辛く、悲しい別れはだれも奪うことのできない喜びに溢れた出会いへと導かれるためでした。
3.出産の譬えから親子の譬えへ
「女はこどもを産むとき、苦しむものだ。自分の(陣痛の)時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。(21節)。このイメージが好きでない方は、ヨハネ14:18~19のテキストを紹介します。「わたし(イエス様)は、あなたがたをみなしご(孤児)にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると(また、ミクロンです)、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。
4.会堂からの追放の危機の中で(16:2~3)
時のしるし:日本社会の混迷の中で」。「会堂追放」と言う表現はヨハネ9:22、12:42とここだけに登場します。今朝の聖所箇所は、まさに具体的な歴史の危機の中で語られています。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗さんは、首相時代「日本は神の国ぞ!」と叫んだ人です。これが、「国境を超えた」大会組織委員会のトップに据えている「クニ」、コロナウイルス感染の危機に直面して、責任をなすり合っている私たちの「クニ」であることを踏まえて今日の聖書の言葉に耳を傾けましょう。
今週、水曜日からレント(四旬節)に入ります。主イエスの受難と復活を祝う準備の40日です。(松見 俊)