インターネットで参加されている方々聞こえていますか?映像を見ることができていますか?場所は違っても共に礼拝できることを喜んでいます。「しばらくすると」という言葉がヨハネ16:16~24の最初の3節に7回も登場しています。ギリシヤ語本文でもきちんと7回出てきます。5回目の「しばらくすると」はそこだけ、冠詞がついて「ザ しばらく」となっています。(イエス様が言われた「しばらくすると」を受けてそれを指しているのでしょう。)ヨハネ福音書は「しばらく」オタクの福音書ですね。まあ、「しばらくの福音書」とでも言ってよいでしょうか?今朝、読んでいる箇所の鍵になるもう一つの言葉は、説教題にしました「その悲しみは喜びに変わる」(20節)というイエス様の宣言です。これをもう少し長い表現で言えば22節「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はない」という約束の言葉となるでしょう。むろん、もう一つ重要なことは、主イエスが十字架に上げられることによって父なる神と子なるキリストの交わりの中から私たちの傍らに、わたしたちのただ中に、聖霊が派遣され、私たちはみ子イエス様の名によって祈ることができる。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」というイエス・キリストの名による祈りでしょう。(このキリストの名によって祈るという箇所は、東福岡教会のある兄弟(家父長主義に反対してときに「弟兄」とも言おう)のことを覚えて祈っている中で与えられたみ言葉ですが)、今日のメッセージはそのような点には触れずに「しばらく」ということと「しばらくすると、その悲しみは喜びに変わる」ということに焦点を当てます。
1.「しばらくすると」
東福岡教会から西の方に行きますと西新という街があります。私は百道浜という処に住んでいますが、最寄りの地下鉄駅は「西新」です。むかしむかし、西新の町に「しばらく」という屋台のラーメン屋があったそうです。西新から脇山街道を南に行きますと干隈という処があり、そこに西南学院大学神学部と神学寮がありました。夜な夜な腹をすかした神学生が寮を抜け出し、西新にある「しばらく」という屋台に出没したそうです。私は屋台ではなく西新の街の中に店を構えた「しばらく」というラーメン屋さんに7~8回は行ったことがあります。店に入ると、「大将(軍隊用語は本来避けるべきですがお許しください)、やあ、しばらく」と挨拶するのですが、この場合「しばらく」とはどのような時の流れなのでしょうか?「しばらく」とは「久しぶりであるさま」あるいは「長い期間を隔てているさま」を言い表します。
しかし、「しばらく」には、もう少し違う意味があります。「ほんの少しの間」「しばし」を意味します。ギリシヤ語の「しばらくすると」は「ミクロン」という言葉です。みなさん、1ミクロンは0.0001センチですね。人間の髪の毛はおよそ60~80ミクロン、また、そろそろ私たちを悩ます「スギ花粉」はおよそ30ミクロンです。この「長さ」の単位を「時間」に用いているわけですが、「ミクロン」とは本当に短い瞬間を意味するのです。「しばらくすると」という時の長さは多分人それぞれの感受性によるでしょう。どうして病気が治らないのだろうか?とか、いったい、コロナウイルス感染はいつまで続くのだろうか?とか、この不況はいつまで続くのだろうか?とか、いつまで勉強しなくてはいけないのだろうか? とか、最近は人生100年時代とも言われますが、70歳はどのような感じなのか、もう立派な高齢者であるのかなあとか、それは、それぞれ皆さんの感覚によるのでしょう。しかし、確かなことは、それは、ほんの「しばらく」のことなのです。イエス様が十字架の上で、殺された、息を引き取られたのは、金曜日の午後15時でした(マルコ15:34-37)。イスラエルでは一日は日没から始まりますので(日本の一日の数え方と6時間ずれています)、イエス様が弟子たちと最後の別れをしているヨハネ福音書のこの場面は実は、十字架につけられた同じ長い金曜日の晩です。次の日曜日の夜明け6時前頃、空っぽの墓が発見されるまで、つまり、イエス・キリストがよみがえらされるまでの長さは、ほんのわずかだったということです。まさに、「しばらくすると」イエス様が目に見えなくなり、また、しばらくするとイエス様を見るようになるのです。これが確かなことです。
2.別離は出会いの始まりである
いままで弟子たちは自分の力でイエス様を捉えようとしていました。ペトロなどは「たとえ火の中、水の中、死を賭けてあなたに従います」などと言っていました(マルコ14:31)。私のように、また、皆さんのように戯けた人です。ですから、皆さんペトロさんが好きなのです。しかし、人間が人間の側から神をつかむのではなく、神ご自身が人間をつかむのです。この逆転が起こるためには、弟子たちは主イエスとの辛い、厳しい「別離」・「お別れ」を経験しなくてはならなかったのです。聖霊による新しい出会いは肉というか人間側からの別離・断絶を経なければならないとヨハネによる福音書は語ります。何ということでしょう!主が殺されてしまったのです。弟子たちは主との別離を経験せねばならない。そんな弟子たちを励ますように主は語られます。別離は、新しい出会いの始まりである。ひっとすると、愛する弟子たちをこの世に残して逝くイエス様はもっと辛く、もっと悲しく、だから、ご自分を励まし、慰めるためにご自分に向けて別離は出会いの始まりであると言われたのかも知れません。主イエスは「父のもとに行かれ」(17節)、「やあ、しばらく」と言って帰って来られたのです。新しい喜びの出会いのためにはこの辛く、悲しい別れが必要であり、辛く、悲しい別れはだれも奪うことのできない喜びに溢れた出会いへと導かれるためでした。
3.出産の譬えから親子の譬えへ
この個所で、主イエスは出産の譬えを語ります。イエス様は出産の経験がなかったにもかかわらずです。「女はこどもを産むとき、苦しむものだ。自分の(陣痛の)時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。(21節)。これは男の感受性であって、女性はあの時の苦しみを忘れないというかも知れません。しかし、ここにおられる皆さん一人一人は女性の、そして、父親の苦労の中から生れているのではないでしょうか?子どもを産んだ経験のない祝福された方々、結婚をしないという祝福を受け取っておられる方々、このようなイメージにどこかで性差別の匂いを感じられる方々は、「しばらく」の神学のヨハネ14:18-19のテキストを紹介します。「わたし(イエス様)は、あなたがたをみなしご(孤児)にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると(また、ミクロンです)、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。こどものない方、産みの苦しみを経験しない人もみな、親はいる、あるいは、いたはずです。人間的には酷い親であったという経験をお持ちの方もいるはずです。しかし、神はみ子イエス・キリストにあって、私たち、私、そして皆さんをみなしご(孤児)には、なさいません。これは確実なことです。出産の譬えがピントこない人は、「みなしごにしない」「ひとりにしない」という言葉で勇気づけられて下さい。
4.会堂からの追放の危機の中で
最後に一言加えておきます。ヨハネによる福音書の教会は、時間的な歴史を飛び越えて、小さな信徒たちの集団へと固まってしまう危険性があります。東福岡教会もそのような教会にならないように注意しましょう。まあ、今日の説教は面白かった、つまらなかった、で終わりませんように祈ります。16:2~3を読みます。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」ローマ帝国の皇帝クラウディオス帝がユダヤ人をローマから追放したのが、49年頃であり、それを機会に、プリスキラとアクラ夫妻はコリントに移り、パウロと出会っています。また、ローマ皇帝ネロは64年頃、ローマの大火事をキリスト教徒のせいして、キリスト教徒を部分的に迫害し、ペトロとパウロはその時、殉教したと言われています。ところで「ユダヤ教の会堂からキリスト者が追放される」(aposynagōgeous)と言う表現はヨハネ9:22、12:42とここだけに登場します。これまでは、キリスト教信仰はイエス様やパウロがそうであったように、ユダヤ教の会堂を中心に存在していました。個々の迫害はあったでしょうが、キリスト教徒が公式にユダヤ教から追い出されたのは、もう少し後のことでした。70年のユダヤ戦争でエルサレムが陥落し、エルサレムからヤムニアという町に逃れたユダヤ教徒たちは、ファリサイ派を中心にしてユダヤ教を受け継ぎました。そして、キリスト教を異端であると宣言して、キリスト教徒を迫害することを神への奉仕であると考えたという歴史的事実があります。このように、聖書はキリストを証言する信仰の書ではありますが、具体的、歴史的な危機的な出来事の中で読まれねばなりません。2020東京オリンピック組織委員会会長の森喜朗さんは、首相時代「日本は神の国ぞ!」と叫んだ人です。(また中国がまだ少し政治的に健康であった時代に訪問した森首相に対して中国要人をして「これほど愚かな人をみたことがない」と嘆かせた人です。)この人を、国境を超えたオリンピック・パラリンピック組織委員会のトップに据えていた国が、酷い女性差別を許してきた国、コロナウイルス感染の危機に直面して、様々な責任をなすり合っている私たちの「クニ」であることを踏まえて今日の聖書の言葉に耳を傾けましょう。
今週、水曜日からレント(四旬節)に入ります。主イエスの受難と復活を祝う準備の40日です。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)(松見俊)