1: たとえの解釈
今日の箇所は、イエス様によるたとえ話になります。このたとえ話には、「主人」「農夫」「主人の僕」「主人の息子」が登場します。このたとえによる、これらの人々が、実際に誰を指しているのかということは、いくつかの理解があるとされています。
一つの解釈として、このたとえを話されたイエス様と聞いていた祭司長たちやファリサイ派の人々の関係だけでみるならば「主人は神様」、「ぶどう園はイスラエル」、「農夫はイスラエルの指導者、つまり祭司長たち」、そして「僕と息子は、これまで神様のみ言葉を伝えた預言者たち」とされます。この解釈も、一つの考え方としてできないわけではありません。ただ、この場合は43節の「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられ」(43)る、という言葉を理解するのに、「神の国」を「イスラエル」とし、「ふさわしい実を結ぶ民族」は「別のイスラエルの指導者」となるので、少し理解が難しくなります。
もう一つの解釈としては、イエス様と祭司長たちの目線だけではなく、著者マタイの目線を含めて読み取る見方です。マタイが当時の教会に向けて記した言葉という意味を含めて読み取るときに、「主人は神様」「ぶどう園は世界」「農夫はイスラエル、ユダヤ人」「僕は預言者」となり、「息子はイエス」そして、「ふさわしい実を結ぶ民族は教会」として理解することができるようになります。 基本的に、これまではこの解釈が主流とされてきました。ただ、この解釈には大きな問題があります。それは「僕を殺し、息子を殺した農夫をユダヤ人」とすることで、そこから、ユダヤ人は「イエス・キリストを殺した殺害者、神様から見捨てられた民族」という「反ユダヤ主義」へとつながってしまうということです。このような理解が、ユダヤ人を蔑視し最終的にナチスが行ったようなユダヤ人の虐殺へとつながったのでもあります。
今日、私たちは、このような解釈ではない読み方をしたいと思うのです。基本的なところは先ほど言いました解釈とほぼ同じなのですが「ぶどう園は、この世界、そしてわたしたち人間という神様の造られた存在」のことであり、「農夫とは、罪ある私たち人間」のことであり「実を結ぶ民族とは、悔い改め生きる私たち」のこととして読み取っていきたいと思うのです。
2: 私たちの主人
今日の箇所において、「主人」は神様です。神様はぶどう園を農夫に委託し、管理を任せました。農夫に求められているのは、主人のぶどう園のために働き、ぶどうを実らせ、収穫し、そしてその収穫を主人に差し出すことです。それが、農夫が本来、求められていることです。しかし、ここで農夫は38節に、「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」(38)とあるように、相続財産を自分たちのものに、つまり、このぶどう園を自分たちのものにしようとして、主人の息子を殺してしまったのでした。つまり、農夫は自分が主人になろうとした、自分たちが主人になれると勘違いをしたのです。これはまさに神様を忘れた私たち人間の姿です。
創世記において、神様は人間を創造されるときに言いました。【神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」】(創世記1:26-28)
ここでは「支配」という言葉を使っていますが、これは「管理」という意味を持ちます。神様は自ら造られたこの世界を、人間に管理させようとしたのです。つまり、この世界は人間のものではない、この世界はあくまでも神様のものであるということです。それは、「私」という存在、自分自身もです。私たちは神様によって造られ、神様によって委託された者、つまり私たちの存在自体、その持ち主、主人は神様であり、私たちではないのです。
私たちの主人は神様です。しかし、私たちは、つい、自分が主人だと思ってしまうのではないでしょうか。「世界の主人は私だ」という人は、あまりいないかもしれません。ただ「自分自身、その命は自分のもの」だと思っているのではないでしょうか。皆さんはいかがでしょうか。自分は誰のものとして生きているでしょうか。自分自身のこの命を、自分のものとして生きているのではないでしょうか。
3: 理解することと受け入れること
このとき、イエス様のたとえを聞いていた祭司長、ファリサイ派の人々は、イエス様に「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」(40)と尋ねられると「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(41)と答えたのでした。祭司長たちやファリサイ派の人々は、このイエス様の言葉を、第三者として客観的に聞いたときには、正しく理解することができたのです。しかし、この後45節において、このたとえは自分たちのことを言っていることに気が付いたとき・・・祭司長たちは、理解し、受け入れるのではなく、イエス様を捕えようとした。つまり、理解をすることはできる、しかし、受け入れることはできなかったのです。
私たちも、このたとえ話を聞いて、「主人は跡取り息子がいなくなったから、農夫にぶどう園を譲る」とは思わないでしょう。このように、私たちもこの話を、たとえ話として理解することはできるでしょう。ただ、それが自分のこととして向けられたときに、受け入れることはできるでしょうか。「自分は神様のもの、自分の主人は神様であり、自分は神様に管理を任された農夫である。だから私たちは自分のしたいことをするのではなく、神様のために生きる」ということを受け入れることができるでしょうか。
4: 理解を超えた神の愛
イエス様は続けてこのように言われました。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」(42)
「隅の親石」とは、建築に最も必要な基礎の石のことです。つまり、これは、家を建てる者、つまりプロの建築家が必要ないものとして捨てた石が、「隅の親石」、建築に最も必要な基礎の石となったということです。ここでいうところの建築家。それは、祭司長たちやファリサイ派の人々、そして私たち自身です。先ほどのたとえにあったように、農夫は、僕、息子を殺しました。そして、建築家は「隅の親石」を捨てたのです。つまり、神様の御子イエス・キリストを殺し、捨てたということです。しかし、神様は、このイエス・キリストの死をもって、私たちの救いの道を開かれたのです。私たちは、イエス・キリストを捨てた。しかし、神である主は、その石を隅の親石、救いの土台としてくださったのです。これが神様の救いの出来事です。
わたしたちは、何かをすることによって救われるのではありません。神様はただ神様の一方的な恵みとして、救いの道を開いてくださったのです。まさにこれは私たち人間の理解を超えた出来事ではないでしょうか。神様はこの人間の理解を超えた大きな愛と慈しみの出来事として、イエス・キリストをこの世に送り、十字架の上で死なせられ、そして復活させた。これは人間の理解を超えた、しかし確かになされた神様の愛の御業なのです。私たちは、神様の愛を、理解することによって受け入れるのではなく、私たちの理解を超えた神様の大きな愛、大きな恵みを、ただ、頂く、ただ、受け取ることによって、新しく歩き出すのです。
神様は、このイエス・キリストによる恵みとして、人間に良い農夫として生きる道を開かれたのです。わたしたちは、今、神様の大きな愛をいただき、新しく生きていきたいと思います。それは、ここに登場する農夫から、実を結ばせ、それを神様に差し出す農夫として生きる者となるということです。神様の求める収穫。それは愛です。私たちはこの愛の輪を広げていきたいと思います。そのために、私たちは、自分の主人を神様として、生きていきたいと思います。(笠井元)