1: たとえの解釈
今日のたとえ話には、「主人」「農夫」「主人の僕」「主人の息子」が登場します。今日は、主人を神様、ぶどう園を神様の創造された世界、人間という存在、農夫を罪ある私たち人間、僕は預言者、息子はイエス様、そして実を結ぶ民族を悔い改め生きる私たちとして理解したいと思います。
2: 私たちの主人
今日の箇所において主人は神様です。神様はぶどう園を農夫に委託され、管理を任せました。農夫に求められているのは、ぶどうを実らせ、収穫し、主人に差し出すことです。しかし、農夫はぶどう園を自分たちのものにしようとして主人の息子を殺したのです。農夫は自分が主人になろうとしたのです。これは神様を忘れた私たち人間の姿です。
創世記において、神様は人間を創造されるときに、自ら造られたこの世界を人間に管理させようとしたのです。しかし、この世界はあくまでも神様のものです。私たちの主人は神様です。
3: 理解することと受け入れること
イエス様のたとえを聞いていた祭司長、ファリサイ派の人々は、このイエス様の言葉を第三者として客観的に聞いているときには正しく理解することができたのです。しかし、このたとえが自分たちのことを言っていることに気が付いたときに、受け入れることはできなかったのです。
私たちもこの話をたとえ話としては理解することはできるでしょう。しかし、自分は神様のもの、自分の主人は神様であり、自分は神様に管理を任された農夫である。だから私たちは自分のしたいことをするのではなく、神様のために生きるということを受け入れることができるでしょうか。
4: 理解を超えた神の愛
「隅の親石」とは、建築に最も必要な基礎の石のことです。建築家が必要ないとして捨てた石が、「隅の親石」となったのです。建築家は祭司長たち、そして私たち自身です。農夫は息子を殺しました。建築家は石を捨てた。それはつまり、神様の御子イエス・キリストを殺し、捨てたということです。
しかし、神様はイエス・キリストの死をもって救いの道を開かれたのです。世界を創造した神様が私たちの下に立ち、私たちの救いの道を開いてくださったのです。私たちは、理解することによって受け入れるのではなく、理解することができない神様の大きな愛をただ頂くのです。私たちは、自分の主人を神様として愛を頂き、愛を広げる者として生きていきたいと思います。(笠井元)