今週の木曜日、3月11日に、東日本大震災から10年を迎えることになります。東日本大震災で亡くなられた方は1万5千人以上であり、10年経った今も、行方不明の方は2500人を超え、避難生活者はいまだ4万人を超えているのです。
日本バプテスト連盟の東日本大震災現地支援委員会から「東日本大震災から10年を数えての祈り」が送られてきましたので、後ろの掲示板に掲載していますので、ぜひ皆さん一度ご覧ください。すべてを読むことはできませんので、少しだけ内容を抜粋してご紹介したいと思います。被災地では、10年経った今も、ぬぐえない恐怖と不安、痛みと悲しみがあること。住宅整備などは進んでいますが、一方で、人とのつながり、コミュニティーの分断による、寂しい暮らしを余儀なくされている方々がおられること。そして、このような混乱と不安の中で、神様の存在を見失ってしまうときもあったこと、それでも神様が目を留め、共にいてくださったことを感謝する祈りが記されています。私たちも10年経った今、このような不安と痛みが続いていることを覚えたいと思います。
現在、私たちは「レント」を迎え、主イエスの受難を覚えるときを迎えています。私たちは、このときにいまだ震災の傷が癒えない人々がおられること、そして、私たちの群れにも多くの痛みを背負っている人がおられることを覚えたいと思います。
1: 準備は整っている
さて、今日の箇所において、イエス様は天の国を一つのたとえで語られました。イエス様は、「天の国は、王子の婚宴を催したものに似ている」と言います。婚宴。つまり盛大で、喜ばしい、お祝いの場所。すべての人の喜びが溢れているのです。しかも、王子の婚宴ですから、この国で一番盛大なものということでしょう。ここで、王は婚宴に招いておいた人々を、「準備が整ったので、来るように」と呼び寄せたのでした。当時の婚宴は、まず日時が決まらない時点で一度、招きがなされ、そのあと完全に準備が整ったところで、改めて迎えをだして呼び出したそうです。この時、婚宴を催す王様側の準備は整ったのでした。王様は家来を出し、「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」(4)と呼び寄せたのでした。
この話は天の国のたとえです。つまり、この婚宴の準備が整っているということは、神様は、私たち人間を天の国に迎える準備が整えられたことを表します。神様は人間を愛して喜び、その扉を開いて、手を差し伸べてくださっている。そのように、天の国への道はすでに整えられ、開かれ、招かれているのです。
2: 招きを拒否した
王様は準備を整えられ、人々を招かれました。しかし、人々は、その招きに応えて婚宴に行こうとはしませんでした。人々は、婚宴に行くことはせず、その招きを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけたのでした。婚宴に行かなかった者たちは、婚宴に行くことができなかったわけではありません。この王様の招きよりも、畑に行くこと、商売をすることを選んだのです。人々は働きに出かけたのです。これを天の国として考えるならば、この招きを拒否した者たちは、決して堕落した者というわけではなく、神様の招きよりも、自分で働き、自分で生きることを望んだとみることができるのです。
私たちの心の中には多くの思いがあり、神様の愛が入るところがなければ、神様の愛は入ってこれないのです。むしろ私たちが、疲れ、痛み、苦しんでいる中で、すべてを失い、何も持っていない、何もなくなったところにこそ、神様の愛を受け入れることができるのです。
この後、別の人々は、王の家来を捕まえて、乱暴し、殺してしまったと続きます。人々は、ただ拒否するだけではなく、その招きを伝える者を殺してしまったのでした。つまり、神様の招きを受け入れ、応えないだけではなく、その働き、神様の招きを破壊してしまったのです。
私たちは、神様の招きにどのように対応しているでしょうか。この時、人々が働きに出ていったように、この神様の招きに応えて生きることよりも、自分のため、自分で生きるために何かをすることを優先していないでしょうか。そして、この神様の招きを拒否するだけではなく、その招きを破壊してしまってはいないでしょうか。この世界は、神様の招きを受け入れないだけではなく、その招き自体を破壊し、神様の招きは間違っている、そのようなものは必要ない、と主張するのです。
3: 広げられた招き
ここで、王は、もともと招いていた人たちが招きに応えないことを知り、今度は、「町の大通りで、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(22:9)と言われました。そして、見かけた人は善人も悪人も、すべての人が集められたのです。つまり、もともとの招きが断られたとき、むしろその招きはすべての人へと広げられたのです。私たちは、神様の招きを拒否してしまう者なのです。しかし、そのことによって、神様の招きはなくなったわけではないのです。むしろその招きは広げられ、すべての人間へと向けられていくのです。つまり、私たちが神様の招きを拒否したとしても、破壊しようとしても、神様は、そのような人間の弱さや間違いを超えて、救いの手を差し伸べてくださるのです。
神様の招きには、限界はありません。しかし、覚えておきたいのは、神様の招きに限界がないということは、ただ神様が全知全能であり、なんでもできる方、スーパーマンのような方だからではないのです。神様は自らの招きに対する私たちの拒否を、痛みを持って受け留められたのです。
神様は、イエス・キリストの十字架によって表される死の苦しみを受けられたのです。イエス・キリストの十字架によって、神様の救いの招きはすべての人間へと向けられたのです。神様の招き。それは、自らが傷つき、痛み、そして死に入れられる中で、それでも私たちを天の国、神様の愛に生きる道へと招いてくださっているのです。
4: イエス・キリストを着る
この神様の命を懸けた招きに、礼服を着ていない者がいました。これだけ見ると、町の大通りにいたところを突然に呼び出されてきたのに、礼服を着ていないことで、外につまみだされるなんて・・・と思うかもしれません。ただ、この時の習慣として、お金持ちの人が、人々を招くとき、招いた相手の礼服を用意するという習慣があったそうです。つまり、神様が用意した礼服をこの人は脱いで捨ててしまっていたということです。この礼服が示すものが何なのかということについては、いくつかの解釈がありますが、その一つとして、ルターは「信仰」として理解しました。
信仰とは、招きを拒否した者たちのように、自分で生きる、自分で神様を信じるということではなく、ただ神様の命をかけた招きに、素直に応答すること、イエス・キリストの十字架によって救いを得ることを受け入れるということです。ガラテヤ書ではこのように言います。【あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。】(ガラテヤ3:26-27)私たちが、神様の招きに応えること、それは、キリストを着て、キリストに結ばれて、神の子として生きるということです。
私たちは、今、この神様の招きに応えて歩き出したいと思います。それは神の国、神様の愛のあふれる道です。そしてそれはイエス・キリストの十字架によって整えられた命を懸けて招かれている招きです。このイエス・キリストを信じる者として、共に歩みだしましょう。(笠井元)