1: イエスへの罠
今日の箇所は、皇帝への税金を納めることは律法に適っているか、それとも律法に適っていないのかという、イエス様への問いと、それに対するイエス様の答えという内容になっています。15節にあるように、これは、ファリサイ派の人々がみんなで相談し、考えに考えて出したイエス様への「罠」でした。
まず、ファリサイ派の人々は、自分たちが行くのではなく、弟子たちを尋ねに行かせました。弟子たちということは、ファリサイ派の教える立場の人々として権威を確立した人々ではなく、むしろ未熟で、学び中、だからこそ、「先生」に尋ねることは当然の者たちです。そのような弟子たちがイエス様に【「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」】(17)と尋ねたのです。ある意味、この問いに答えないことは、イエス様は弱い者を無視することにもつながり「分け隔てする者」となってしまうのです。そのため、イエス様はこの問いに答えないわけにはいかない。つまり、一つの罠として、イエス様を、「わたしは知らない」とは言わせない、まず必ず答えなければならないという立場に立たせたのです。
そして、同時に、この時、人々はただ、弟子たちだけで尋ねに行かせるのではなく、ヘロデ派とされる人々と一緒に行かせたのです。ヘロデ派という人々がどのような人々であったのかは、あまり知られていないのですが、その名前から考えられるのは、ヘロデ王家の支配を支持する者たちであり、それはローマ帝国に追随する者たちであったと考えられます。つまり、ローマ帝国に納税すること、ローマ帝国という権力を支持していた人たちだと考えられています。それに対して、ファリサイ派の人々は、ユダヤの民の中でも厳格に律法を守る人々であり、律法によりイスラエルの神様に従うことを支持していた人たちです。この二つの立場にある人々は、普段は、決して、お互いの考えを受け入れることはなく、相いれない人々でありました。しかし、この時、この二つのグループは同じ一つの目的を持っていた。それはイエス様を排除するという目的です。そのため、この二つのグループは、イエス様を排除するため、力を合わせることを受け入れたのでした。
この時ファリサイ派の人々も、ヘロデ派の人々も、もはや自分の信仰も、信じる真理も横に置いてしまっています。ある意味、それほどイエス様という存在が大きな問題であったともいえますし、またこの人々にとって信仰とは、それくらいの小さなものでしかなかったのでもあります。
このファリサイ派の人々の弟子と、ヘロデ派の人々の問いは、抜け出すことのできない罠となっていました。イエス様が「ローマに納税することは律法に適っていない」と言えば、ヘロデ派の人々の思いに反することとなり、それはローマ帝国に反乱を起こすかもしれない危険人物となるのです。「納税しないでよい」とすれば、ローマ帝国によって捕らえられることとなります。また、「ローマに納税することは律法に適っている」とすれば、ファリサイ派の人々の考えに反するものとなり、また多くのユダヤの民の思いを裏切ることになってしまうのです。ファリサイ派の人々は、何度もイエス様を捕えて殺そうとしていましたが、「民衆を恐れて」できなかったとあります。そのような意味で、民衆の思いがイエス様から離れるとき、人々はイエス様を捕えるができたのです。
このとき、イエス様は、ローマ帝国とユダヤの民という二つのどちらを選ぶかが問われていた。この問いは実に巧妙であり、よく考えられた罠となっているのです。
2: イエスの答え
「ローマ帝国という権力とユダヤの民の思い、どちらを選びますか」と問われている罠に対して、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられたのです。イエス様は、まず、人々が持っている銀貨を出させ、「これは誰のものか」と尋ねました。それに対して人々は「これは皇帝のもの」だと答えました。この銀貨には皇帝の肖像と銘が記されていました。つまり、これはユダヤの民からすれば、あくまでもこの世において人間が造ったものであり、言い方を変えれば、偶像なのです。つまり、皇帝の支配しているものは、この銀貨、つまりこの世で造られたものだと教えられているのです。そしてこの偶像は偶像を造ったものに返すように答えられたのです。
そして続けて「神のものは神に返しなさい」(21)と言われました。「神のもの」。それはこの世界であり、私たち人間であり、命です。イエス様の答え、それは「皇帝」と「神様」を同等に考える問いに対して、どちらを選ぶかと問われる中、「皇帝」と「神様」は全く別次元にあることを教えられたのです。この答えは、信仰、信じることを横に置いておいてでもイエス様を捕えようとしていたファリサイ派、ヘロデ派の人々に、「まず神様を信じることが一番大切だ」と教えらえている答えなのです。
当時、社会はローマ帝国によって支配されていました。しかしそれは、あくまでも人間の作り出した権力、この世の権威です。イエス様は、そのようなこの世の権威ではなく、神様に従うことを教えられているのです。これは、現在の私たちにも向けられています。私たちは、この世の、この社会に生きています。その中で、私たちはこの世のルールに従って生きています。
ローマ書において、パウロはこのように言います。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。・・・すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。】(ローマ13:1-2、7)ここでは、「神に由来しない権威はない」と語ります。しかし、私たちが生きるこの世を見るとき、それはむしろ「神様に由来する権威はない」と言いたくなるような社会です。
ここでは、教会としての私たちの使命を教えられます。つまり、「この世の権威が、神に由来するものとなるため、神様の御心から外れることがないために、私たちは働き続けなければならない」ということです。教会は、神様の御心を伝えること、伝道することを使命としていただいています。
そして神様の愛、イエス・キリストの十字架と復活を伝えるということは、この世の権威、社会が神様の御心に従うように、生きることとつながっているのです。私たちは、この世界、この社会もまた神様に造られたものとしていただくのです。
3: 神に造られた者として生きる
イエス様は「神のものは神に返しなさい」(21)と言われました。神様のものとして、私たちがお返しするもの、その一番中心にあるのは、私たち自身です。創世記ではこのように言われます。「 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)私たちは、神様にかたどり、神様の似姿として創造されました。それは、ただ造られたということではなく、神様に向き合う者として、神様とつながる者、神様に愛される者、神様を愛する者として造られたということです。私たちは神様と向き合う者として生きているのです。聖書では、「神様はどのような時も私たちと共にいてくださる」ことを教えます。それはどのような時も、神様に向き合う者として私たちは造られた。神様の愛を受け、神様にその愛をお返しする者として造られたということです。
イエス様が教えられた生き方、「神のものは神に返す」、それは自分を神様にお返しする生き方、神様に向き合う生き方です。この生き方、神様にすべてをお返しする道を完全に生きた方。それが、神の子でありながらも、人となられ、この世に来られた方、イエス・キリストです。イエス様は、自ら神様に造られた者として、神様のものとして、神にすべてをお返しする者として生きたのです。
私たちはこの社会に生きるときに、様々な権威による圧力を受けています。学校、会社、それこそ家庭や教会においても、何かしらの圧力を受けているのです。イエス・キリストは、その社会の圧力の中、その命の最後まで、十字架につけられながらも、神様に従い続けたのでした。イエス・キリストは十字架において、「神のものを神に返す」という生き方を完成されたのです。私たちは、この社会にあって、この世のどのような権威、圧力にも支配されることなく、ただ神様に従う者として生きていきたい。何よりも、神様に造られた者として、神様に自らをお返しする者として生きていきたいと思います。
神様に造られたものとして生きる、そこに神様の御心がなされることになるのです。そして、そこに神様の権威、そして神様の御心に由来する権威が造られていくのです。私たちは、ほかの何者でもなく、神様に造られた者、自分は神のものとして、自分を神様にお返しする者として生きていきましょう。(笠井元)