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2021.3.21 「イエスとの出発」(全文) マタイによる福音書26:36-46

1:出発―イエス様と共なる歩みへ

 先週木曜日に神学部の卒業礼拝があり、神学生としての4年間が終わりました。神学生生活の最後の一年間、今年度皆様が研修神学生として受け入れてくださり、共に過ごさせていただくことができました。今日はこの東福岡教会の研修神学生として最後の礼拝出席となります。本当にありがとうございました。

本日の説教題を「イエスとの出発」といたしました。私たち夫婦は岡山教会へ、前田さんは東京での大学生活へと出発していきます。そして、新しい地へ出かけていく私たちだけでなく、本当の意味で言えば私たちは誰もが、二度と戻ってこない今日という日から、この礼拝から、出発していく存在なのです。私たちはイエス様と出発し歩んで参りたいと願います。では、「イエス様と出発する」とは、どういうことなのでしょうか。今日は「イエス様の出発」のお姿を通して、そのことを共に考えて参りたいと思います。

 

2:切実な祈り、眠り込む弟子たち

 【立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。】(46)

 イエス様は弟子たちに、「立て、行こう」と声をおかけになり、十字架へと出発なさいました。ときは十字架前夜。イエス様と弟子たちの別れの夜です。この出発に先立って、イエス様はゲツセマネの園と呼ばれるところで祈られました。それが本日の箇所であります。

 「立て、行こう」―意外に思われるかもしれませんが、イエス様が弟子たちに「行こう(Let’s Go)」という言葉をおかけになったのは、今日の箇所とヨハネによる福音書の「ラザロの死」のところのみです。

しかし、イエス様が「立て、行こう」と声をおかけになった弟子たちの姿は、いったいどのようなものであったでしょうか。

イエス様はゲツセマネの園で深い悲しみを覚えて祈られました。この時、ゲツセマネの園に、ふたりの弟子を伴って行かれたと書いてあります。イエス様はこの弟子たちに、ご自分と共に目を覚まして祈るようお求めになりました。けれども、弟子たちは眠り続けてしまいます。

【「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」】(40)―イエス様は、祈りの中で三度弟子たちのところに戻ってきますが、一度目も、二度目も、三度目も、弟子たちは眠っているのです。十字架前夜、悲しみに悶えるわが主を前に、彼らは眠り込んでしまいます。そればかりか、今日の箇所の直後には、弟子たちは、イエスが捕らえられるのを目の当たりにして、皆、イエスを見捨てて逃げてしまうのです。

連れて行った二人のうちひとりは、「わたしだけはあなたを知らないとは言いません」と啖呵を切ったあのペトロでした。そのペトロも、眠り込んでしまう、やがて逃げ出してしまう・・・。

なぜ、弟子たちは眠り込んでしまったのでしょうか。これが、「立て、行こう」とイエス様に声をかけられた者たちの姿であります。ここでの弟子の姿は、あまりにも情けなく惨めであるように感じられます。

イエス様はこのようにもおっしゃいました。

【「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」】(41)「心は燃えても、肉体は弱い」―【「ひどく眠かったのである」】(43)とも書いてあります。

私は、ここに人間の限界性が表されているように思います。体力的なことを言っているのではありません。この言葉を、イエス様がどんな表情で、どんな口調でおっしゃったのだろうかと想像してみるときに、この言葉は、この時のイエス様の実感から滲み出た言葉であろうと思われてならないのです。

【「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」】(41)

ここで「誘惑に陥らぬよう」にと言われています。では「誘惑」とは何でしょうか。それは、この箇所で言えば、自分に差し出された杯を「飲まない」ということでしょう。イエス様は悶え苦しまれました。

【「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」】(42)

 この「できることなら・・・過ぎ去らせてください」という祈りに、「もし御心に適う形で飲まない方法があるのでしたら教えてください」という、イエス様の切実さが感じられます。

イエス様が杯を飲まずとも、つまり十字架の死を経ずに、それでも神の救いが成就する方法があるなら、あなたさえそれを与えてくれたら・・・できることなら、ここから弟子たちと一緒に逃げ出してしまいたい。それがイエス様にこの時突き付けられていた「誘惑」でありましょう。

イエス様は、私たちと同じ肉体をもって地上を生きられました。神の子として、そのお心ではすべきことはわかっている。時は近づいている。しかしなお、それでもなお、「できることなら」と。イエス様はそのように必死に祈られたのです。その主の傍らで、弟子たちは眠り込んでしまう。その主イエスの切なる祈りを共にすることができない。この杯は、十字架の死は、イエス様にしか飲むことができない。そうしなければ、神の御旨は成就しないのです。

だから、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」

イエス様はこの言葉をおっしゃったときに、弟子たちにそう言うと同時に、ご自分に言い聞かせるようにして、祈りに向かわれたのではないでしょうか。そして、ついにご自分が確かに飲まなければならないということをお受け取りになられたのです。

「立て、行こう」とは、このようなイエス様の切実な祈りを搾り出した末の決断なのです。そしてまさにここに私たちは情けなくも眠り込んでしまう弟子たちの姿を見るのであります。

 

3:「立て、行こう」に込められた神の意志

三度目に、イエス様はこのようにおっしゃいました。

【「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」】(45)

「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」―この言葉をイエス様はどんなお気持ちで言ったでしょう。「ひどく眠かったので目覚めていられなかった弟子たち」のことを叱るようにしておっしゃったのでしょうか。

ここで、眠り込んでしまう、目覚めていられない弟子たちの姿を見、十字架の死へと進んでいかれるイエス様のお声を、なおこの弟子たちと歩みを続けようとされる神のご意思の表現として聞きたいと思います。 それは、イエス様の三度目の言葉を原語で見てみます時に、実はこのような訳もでき得るからなのです。

「もう眠ってよい。休みを取りなさい。」

十字架前夜に眠りこけてしまうような私たちのこの弱さを、愚かさを、もう丸ごと私が引き受けようという、イエス様のご意志がここにあるのです。神の子であるイエス様が罪人に、イエス様を十字架におかけしてしまう私たちに引き渡されたのです。

「杯を飲むこと」を決心され、「立て、行こう」とおっしゃった時点で、もはやイエス様にとって、この園に弟子たちがついて来てくれたというだけで十分となったのではないかと思います。 “君たちはもうそれでよい。私が杯を飲もう”―それがイエス様のご決心なのです。

 

4:祈られた者としての出発

「神学生がこんなことを言うなんて」と思われる方がおられるかもしれませんが、皆様を信頼して申し上げますけれども、私は神学生としての4年間を振り返るときに、神学校へ入学してからの学校生活や教会生活のなかで、この教会に来るまでは常にどこか疲れを覚えていたように思うのです。振り返ってみれば、どこか力が入り過ぎていたところがあったのではないかと思います。そのために疲れがどっと出て、もう何度学びを続けられないのではないか、その方が世のため教会のためなのではないかと思ったか知れないのです。けれどそれは、この箇所の表現で言えば、私に与えられた「誘惑」だったのだと思います。

そんな私が疲れて眠るような時、皆様がイエス様と共に祈ってくださいました。コロナウイルス感染拡大防止のために、会堂にみんなで集まれなくなった期間は私にとって神様からの召命を受け取り直す祈りの時でありました。東福岡教会は笑顔の多い教会だなあということが印象的でした。集まることが再開され、けれどなおマスクで顔の上半分しか見えない難しい状況のなかにもかかわらず、いつも皆様が本当にいつも私を気にかけてくださり、声をかけてくださり、祈ってくださったのでした。皆様のあたたかさと励ましを通して、私にとってこの一年間は、適度に力が抜けて癒されていった時間だったというふうに思います。

 

5:主イエスと共に行きましょう!

【「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」】(46)

 イエス様の出発を見て、弟子たちは皆、イエスを捨てて、散り散り逃げ出しました。それで一見、離れ離れになってしまったかのように見えます。しかし、それでイエスとの関係が切れてしまったのではありませんでした。私たちは誰もが眠ってしまう、逃げ出してしまう弱さを持っています。けれどなお主イエスの弟子とされています。

 イエス・キリストは十字架によって私たちのために杯を飲み干された、そこにどんなに切実な祈りがあったことでしょうか。私たちは主イエスの祈りによって今日を生きているのです。

イエス様が十字架にかかり、復活して弟子たちをお訪ねになり、新しい宣教の業へと送り出してくださった、その延長線上に、2000年後、今日ここに教会が建てられていて、私たちも同じ業に遣わされています。目を覚まして祈るとき、私たちはそのことにほんのわずかでも気がつかせていただけるのではないでしょうか。イエス様が私たちとつながってくださり、私たち同士をつないでくださるのです。

しかし、本質的に私たちは「心は燃えても肉体は弱い」―「ひどく眠かったのである」―そんな限界を持っている。どんな旅路でも、意気揚々出かけて行って、ときに逆風が吹いたり、一生懸命に力を尽くしてかえって失敗をしたりすることがあるものです。きっと、これからも私たちはそういう経験をしながら歩み続けるのでしょう。しかし、私たちにとって肝心なのは、「立て、行こう」―この声に従って、出発することです。

 イエス様に従って出発しようとするとき、今日私たちが行く道は確かに異なるように見えます。しかし、それを限界のある私たちの傍らで主イエスは一緒に担ってくださる。主イエスは祈り続けていてくださる。主イエスが再び来られるその日まで、今までもこれからも、私たちの歩みは同じ主イエスの呼びかけによって続いていきます。

「立て、行こう。時は近づいた」。

1年間お世話になりました。これからも共に主イエスの業に与ってまいりましょう。(高橋周也)