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2021.3.28 「悲しみという誘惑~主イエスの祈り~」(全文) ルカによる福音書22:39-46

1:  受難の前の祈り いつもと同じように

 今日から受難週となります。今年は2月17日から受難節、レントが始まり、イエス・キリストの十字架を覚えてきました。そして、今週、金曜日に受難日、イエス・キリストが十字架の上で死なれたときとなり、来週の日曜日が復活の時、イースター礼拝となります。今日は、イエス・キリストが十字架を前にして祈られた、「祈り」についてみていきたいと思います。

 今日の小見出しは「オリーブ山で祈る」となっています。この箇所は、共観福音書とされるマタイによる福音書、マルコによる福音書の小見出しでは「ゲッセマネで祈る」となっています。先週は高橋神学生が、マタイによる福音書から、お話しくださいましたが、この小見出しからも、ルカとマタイとマルコでは違いがあることを見ることができます。そして、違いがあるということは、この違いにこそ、ルカが見た、イエス様の十字架の前の祈りの意味を見ることができるのです。

 今日の箇所において、イエス様はオリーブ山へと行かれました。そこは「いつものように」「いつもの場所」としてオリーブ山に行かれたのです。つまり、ルカによる福音書では、十字架を前にしたイエス様は、いつもと同じように祈りをされたのです。宗教改革者であるルターは「たとえ明日、世界に終末が来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう。」と言ったとされます。 イエス様は、十字架という死を前に、まさに、いつもと同じところでの祈り、いつもと同じ行動をされたのです。 

この時イエス様はどのような思いにあったのでしょうか。死を前にして、悲しみや恐れを受けていなかったのでしょうか。そんなことはないでしょう。むしろ、イエス様は、死を前にして、想像を超えるほどの恐怖に襲われていたと思うのです。そしてだからこそ、これまでどのような困難の中にあっても祈ってきた、父なる神様に祈ったのです。イエス様は、これまでの生活、いつもの祈りの中で、神様の助けを頂いてきたのです。だからこそ、どれほど大きな恐怖にあっても、同じように神様に祈った。神様に信頼したイエス様の姿があるのです。これがルカによる福音書における、十字架を前にしたイエス様の祈りの姿なのです。

2:  神様を信頼するイエス

 マタイ、マルコでは、イエス様は十字架を前にして、ゲッセマネの祈りの中で、悲しみ、苦しみ、もだえたのでした。マタイではこのように記されています。「そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』」(マタイ26:37-38

このイエス様の言葉はマルコでも同じような言葉が記されています。しかし、ルカでは、43節から〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕(ルカ22:43-44)と、このイエス様が苦しむ姿はカッコつきで記されています。このカッコつきのところは、2世紀以降に加筆されたと考えられている箇所となります。もちろん付け加えたこと自体にも意味がり、そこにも一つの神様の意志が働いているのです。

 この箇所において、天使が「イエス様を力づけた」とあります。ここから、苦しむイエス様を力づけられる神様の支えを見ることができます。また「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」という言葉から、私たちの罪を受け取ってくださるイエス・キリストの苦しみと、祈りの痛みの大きさを知るのです。そのうえで、このルカによる福音書でのイエス様は、悲しみにもだえ苦しむ姿を中心とするのではなく、神様に信頼するイエス様、いつものように祈り続けた主イエス・キリストの姿が表わされている。イエス様は十字架を前にして、確かに悲しみや苦しみを受けられた。しかし、それでもなお、神様に信頼する者として祈っていた。そのようなイエス・キリストの信仰を見るのです。

 

3:  悲しみという誘惑

 この神様に信頼したイエス・キリストの姿に対して、弟子たちは45節にあるように、「悲しみの果てに眠り込んでいた」(22:45)のです。イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40)と言われました。しかし、弟子たちは眠ってしまったのです。ここで「悲しみ」という「誘惑」を見るのです。

 

 弟子たちは「悲しみ」という「誘惑」に陥ってしまったのです。このように「悲しみ」が「誘惑」であるとしているのは、ルカによる福音書だけとなります。マタイ、マルコでは「心は燃えても、肉体は弱い。」「弟子たちは、ひどく眠かった」とあります。つまり、マタイ、マルコにおける「誘惑」としては「睡魔」「眠気」、またはそのような「人間としての弱さ」「肉体の限界」というものを示しているのです。それに対して、このルカによる福音書では、「誘惑」とは「悲しみ」とされています。弟子たちは「悲しみ」に打ち勝てず、眠ってしまったのでした。「悲しみ」に耐えることができなかったのです。

 

悲しみというものは、人間を眠りこませる。それは、実際に、肉体的な睡眠だけのことを言っているのはありません。悲しみとは、神様から頂く命の中で、神様に愛されて生きることから、寝てしまうこと、神様から離れていく誘惑に陥ることを、意味しています。私たちが生きる人生において、私たちは、死、病気、事故、災害、様々な悲しみに襲われます。悲しみは、神様を忘れさせる誘惑となるのです。悲しみによる、失望、挫折、絶望、そして怒り、それが人間を神様に愛されて生きることから、眠らせる。そして、神様と人間の関係を断ち切っていくのです。

 

4:  イエスの祈りと導き

イエス様は弟子たちに、【「誘惑に陥らないように祈りなさい」】(ルカ22:40)と言われました。イエス様は悲しみという誘惑に陥らないように、「祈りなさい」と語りかけ導かれているのです。そして、イエス様は、「石を投げて届くほどの所に離れ」つまり「目と鼻の先」で、祈られたのです。イエス様は祈りを示されたのでした。これがオリーブ山でのイエス様の祈りの姿です。しかし弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでしまうのです。これが人間の弱さ、そして「別れ」を受け止めきれない、弟子たちの限界でした。

イエス・キリストは、私たちが「限界」の中で、「誘惑」に陥ることを受け止められた。それが、イエス・キリストの十字架の出来事です。そしてそこから、祈る者へと変えられるために、イエス様ご自身が、祈って下さっているのです。

 

そして、主イエスはこのように祈ったのでした。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(42)「杯」とは「十字架」でもあり、同時に、「弟子との別れ」でもありました。つまり、弟子にこれから降りかかる「悲しみ」をイエス様は、「父よ、御心なら、この杯を、それこそ、取りのけてください。」と祈ったのでもあります。イエス様は、弟子たち、そしてそれは、私たちが、「悲しみ」にあわないで生きること、そしてまた、悲しみの中から、また立ち直り、祈りの中で生きる者となることを、願い祈り続けて下さっている。そして、そこに神様の御心が注がれるように、祈られているのです。

 

 

私たちは、悲しみの中、苦しみの中に陥ることがあります。しかし、この悲しみ、誘惑の中で、私たちは、祈って下さる主に出会いたい。苦しみの中でこそ、イエス・キリストの祈りと愛を受け取っていきたいと思います。そしてもう一度立ち直り、祈りの中で、生きていきたいと思います。私たちのために、絶えず、イエス・キリストは祈り、御言葉を注ぎ続けて下さっているのです。私たちは、ただ、この主イエス・キリストの祈りを受け、主に愛されている者、祈られている者として歩んでいきましょう。(笠井元)