1: 受難の前の祈り いつもと同じように
今日から受難週となります。金曜日がイエス・キリストが十字架の上で死なれた受難の日、来週の日曜日が復活の日となります。イエス様は「いつものように」「いつもの場所」としてオリーブ山に行かれました。十字架を前にしたイエス様はいつもと同じように祈られたのです。
イエス様はこれまでの生活の中で神様の助けを頂いてきました。だからこそ、どれほど大きな恐怖の前にあっても、いつものように神様に祈ったのです。これがルカにおける十字架を前にしたイエス様の祈りの姿なのです。
2: 神様を信頼するイエス様
マタイ、マルコでは、イエス様は十字架を前にして、悲しみ、苦しみ、もだえたのでした。ルカでのイエス様の姿は、悲しみにもだえ苦しむ姿を中心とするのではなく、神様に信頼するイエス様、いつものように祈り続けた姿を見るのです。イエス様は十字架を前にして、確かに悲しみや苦しみを受けられた。しかし、それでもなお、神様に信頼する者として悲しみから解放されていた。そのようなイエス・キリストの信仰を見るのです。
3: 悲しみという誘惑
弟子たちは「悲しみの果てに眠り込んでいた」(45)のです。ルカで「誘惑」とは「悲しみ」とされています。弟子たちは「悲しみ」に打ち勝てず眠ってしまったのでした。
悲しみは、人間を眠りこませます。悲しみは、神様から頂く命の中で、神様に愛されて生きることから寝てしまうことを意味しています。悲しみは、神様を忘れさせるのです。悲しみによる、失望、挫折、絶望、そして怒りが人間を神様に愛されて生きることから眠らせ、神様と人間の関係を断ち切るのです。
4: イエスの祈りと導き
イエス様は悲しみという誘惑に陥らないように「祈りなさい」と語りかけ導かれているのです。しかし弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでしまうのです。これが人間の弱さ、弟子たちの限界でした。
イエス様は「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(42)と祈ったのです。「杯」は、「十字架」であり、「弟子との別れ」「弟子にこれから降りかかる悲しみ」でもありました。
イエス様は、私たちが「悲しみ」の中から立ち上がり、起きて祈る者となるために、願って祈り続けてくださっているのです。私たちはこのイエス様の祈りを受け、主に愛されている者として歩んでいきましょう。(笠井元)