1: 価値あるものを見出す
イエス様は「あなたがたを小麦のようにふるいにかける」と語りました。ふるいにかける行為は信仰のある者と、信仰のない者とより分ける作業ではありません。ふるいをかける行為は、私たちの中に価値あるものを見出すための行為でした。
私たちは様々な困難、辛く、悲しい経験をしますが、神様はその経験を用いて、私たちの中から価値あるものを見出し、信仰を与えて下さるのです。私たちが、厳しい試練、ふるいのなかで、自分の心の弱さと信仰の不確かさと向き合い、価値あるものを見出すことが期待されているのです。
小麦のようにふるいにかけられたのは、シモン・ペトロだけではありませんでした。「あなたがた」、つまり、「弟子たち」がふるいにかけられるとイエス様は語るのです。仰を持つ者一人一人が経験する。また、個人だけではなく信仰の共同体としての集まり教会が、ふるいにかけられるのです。
2: 試練の結果 「裏切り」
課せられた信仰の試練の結果は「裏切り」です。イスカリオテのユダも、ペトロも、その他の弟子たちも、「自分はイエス様と無関係だ」と裏切っていくのです。これが人間の熱心さの限界です。
この裏切りはイエス様の愛、イエス・キリストの十字架によって受け止められていきます。それは、私たち一人一人の裏切りもです。肝心なところで、逃げ出し、躓き、拒んでしまう。そのような自分勝手な熱心さや、弱さしか持たない、私たちをイエス様は受け止めて、愛して下さる。それがイエス・キリストの十字架です。
3: 信仰がなくならないように祈った
イエス様は「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と語られます。イエス様は、私たちの、これまでの裏切りも、これからの裏切りも、これまでの罪も、これから犯すすべての罪を知って「信仰が無くならないように」と祈られているのです。この祈りはイエス様の、主権的な祈り、また罪を拾い上げて下さる、導きと支えの祈りです。
このイエス様の祈りは、罪を犯さないための祈りではありません。イエス様の祈りは、「裏切り」「罪」「自己の限界」の中から「悔い改め」へと向かわせる祈りでした。
イエス様の祈りによってペトロは悔い改めへと導かれ、立ち直るのです。そして、初代教会のリーダーとして働くことになり、投獄、殉教に至るのです。イエス様は、ペトロの信仰がなくならないように祈り続けてくださり、その信仰が兄弟たちへと広がり、福音の輪が広がっていくようにと、期待し祈り続けられたのです。
イエス様は、私たちのためにも祈ってくださっています。私たちはイエス・キリストによってお互いを受け止め歩み出すように、神様に指し示されているのです。
私たちは罪、裏切りは受け止められた者です。このイエス様から頂いた福音、喜びを伝えていきたいと思います。そしてお互いの裏切り、弱さ、罪のために祈り合う者とされていきましょう。兄弟姉妹のために祈りましょう。祈り続けましょう。(笠井元)