今年度は東福岡教会には、神学校で学ぶ神学生がいません。幼稚園長を兼ねている笠井牧師の働きを少し軽くしてあげるために一昨年度までのように一か月に一度の割合で説教を担当することになります。どのような構想で年12回を担当するか考えました。旧約聖書の預言書、たとえばミカ書ならミカ書のテキストに沿って説教するか、新約聖書のローマ人への手紙から説教しようかとも考えました。あるいは、皆さんが生きている日常生活、キリスト者としての生き方や教会の「テーマ」を考えるような説教をする方が良いかなとも考えました。そこで思いついたのは、ローマ・カトリック教会や日本キリスト教団など他教派が出版している「レクショナリー」(聖書日課)を用いることでした。通常各教派、ルーテル教会にしろ、英国教会にせよ、3年サイクルでそのような聖書日課(レクショナリー)を作成しています。私は、欧州で5年間生活していましたので、いろいろ旅行し教会にも行きました。教会の玄関、受付にその週の聖書日課が置かれている処もあります。ヘブライ語(旧約)聖書から一カ所、イエス様の言葉と働きを描いている福音書から一カ所、パウロなどの書簡から一カ所の三カ所が選ばれており、500字くらいの短いメッセージまで書いてあります。その教派の全世界のキリスト教会の礼拝において同じテキストからメッセージがされていると想像すると、自由教会であるバプテストでは考えられない想いを持ちます。ある年のイースター礼拝後の第二主日に選ばれているのが、ヨハネ20:19-31です。少し長いので23節で切りました。実は、今から、4年前の4月16日に、このテキストからメッセージをしました。「閉じ篭りからのいのちの解放へ」と題してでしたが、まあ、皆さん、覚えておられないでしょう。少し角度を変えて聖書の証言に耳を傾けてみましょう。
1. いのちの息を吹き込む
死者の中から引き上げられた主イエス様は、鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの処にこられて「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」と。ヨハネによる福音書は「初めに言があった」(1:1)という宣言で始まりますが、それは旧約聖書の創世記1:1「初めに、神は天地を創造された。」を容易に思い出させます。同じように、死に勝利されたイエス様が弟子たちに息を吹きかけられたことは、創世記2章の物語を思い出させます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者(生きた魂ネフェッシュ)となった。」(2:7)皆さんは、人を生かしているのは呼吸であることを承知しているでしょう。人は、外から、空気から、酸素を取り入れ、二酸化炭素を吐き出す。酸素を取り入れると言っても取り入れすぎると良くないですね。かつて牧会していた教会には「過呼吸症候群」を患う方が2人おられました。その人たちはビニール袋を取り出して自分の吐いた二酸化炭素をもう一度吸って調節するらしいです。酸素はまた酸化作用と言って人間の体を錆びさせる働きもあるそうです。それでも酸素は生きる上で必要です。先週福島から遊びにきた日本キリスト教大の女性牧師はホテルに酸素吸入器を送ってきていました。また、人間が吐き出した二酸化炭素を植物が吸って、酸素を出す、炭酸同化作用です。この世界は旨い仕組みになっています。その仕組みを無視して人間たちが炭素酸化物を大量にまき散らしており、生態系の危機、温暖化を迎えていることはご承知でしょう。今年も異常気象であると言われていますが、異常が日常化すると異常ではなくなる、危機が日常化すると危機感がなくなるという状況に直面しているわけです。
また、息を吐かないと、吸えないのです!先ほどの過呼症候群の方も何らかの不安を持っていて、慌てて空気を吸おうとしてしまうわけです。息を吐かないと、吸えないのです。私は自分が牧会するほとんどの教会員の死の看取りをしてきましたが、人は死ぬときに「フー」と大きな息を吐いて死んでいくものです。ある本を読んでいて、「牧会する」とは、この息遣い、吐いたり吸ったりする呼吸を少し助け、整えてあげることであるという文章に出会って、そうなのかと納得しました。「弟子たちはユダヤ人の迫害を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」コロナウイルス感染防止のため緊急避難して、謹慎・蟄居している私たちに通じる姿ではないでしょうか。呼吸をすることが苦しくなる。息苦しくなる。しかし、復活のイエス様は閉じた家の戸をスーット、静かに、突破されて、「生きよ」、「呼吸しなさい」、「聖霊を受けなさい」と皆さん一人一人に「息を吹きかけ」られるのです。
2. 復活信仰と使命
話を次に進めましょう。私の恩師の一人ドイツ人のトーヴァルト・ローレンツェン先生は、「復活と弟子であること」(Resurrection and Discipleship)と「復活と弟子であることと社会的正義」(Resurection, Discipleship, Justice)という著書において、また彼の講義において「復活のイエス様との出会い」は「使命」(mission)と結び付けられていると言っています。頭で考えると、死んだ者がよみがえることなど信じることはできないでしょう。復活のイエス様との出会いは、何か客観的事実を、距離をもって観察するという仕方では理解できません。いのちの分かち合い、溢れる喜び(「弟子たちは、主を見て喜んだ 20節b)を分かち合うこと、イエス様の弟子として生きようとする人にだけ理解できると言っています。確かにパウロの場合もダマスコ途上でイエス様に出会ったとき(ガラテヤ1:16)、異邦人への福音宣教の使命を与えられ、イエス様のために苦労することを告げられたと伝えられています。「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(使徒言行録9:15)とも言われています。ヨハネ福音書では「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20:21b)ということになります。復活の命と喜びは父なる神とみ子の交わりから派遣される、命を分かち合う使命と結び付けられているのです。わたしたちが、自分のいのちを生き生きと生きることは、他者との関係に生きること、喜んでくれる人がいることによるのです。
3. 使命:互いに赦し合うこと
その使命、派遣とは、兄弟姉妹を赦し、受け留めてあげることです。ここで罪とは、複数形ですから、何か不都合な具体的な違反行為を意味しています。人はパウロが言うように、神との深い断絶、裂け目のような「罪」(単数形)を生きていますが、私たちを傷つけ、私たちが傷つけられるのは、その深い裂け目、不安から湧き出て来る、具体的なあれやこれやの諸問題なのではないでしょうか。それらが赦せんと言って怒ったり、がっかりしたりしているわけです。しかし、人はそのような具体的な、本当は些細な問題かもしれませんが、それらを何倍にも膨らませて怒るわけです。このような弟子たち、私たちに、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われています。赦す(aphiēmi)とは、もう良いよと言って「去らせてあげること」、「釈放して自由にしてあげること」です。「赦さない」(kratō)とは、力をもって、取り押さえて、捉まえておくことです。赦すことができたらいかに軽やかに生きられるでしょうか! これができなかったらいかにしつこく、嫌らしい人になることでしょうか! 聖霊を受けよ、いのちの息を分かち合え! 聖霊に気づくとき、そうさせていただくことができるのでしょう。たぶん、赦すことは忘れることではないでしょう。忘れるのではなく、もう少し大きな、あるいは別の枠組みで自分自身をそして、姉妹兄弟を見て、受け留めてあげることなのでしょう。
4. 互いに愛し合うこと:老ヨハネの言葉
最後に、ここからは、聖書の言葉を離れて、伝説の分野に入ります。ヨハネ福音書とヨハネの3つの手紙の主題は、神は愛であり、人間の課題は愛し合うことであるということです。
先日の前田麗奈さんと高橋夫妻の歓送会に私は出席できませんでした。礼拝後宮崎教会の幼稚園の理事会に出席のためでした。たぶん皆さんと同じ気持ちで歓送会に出席したいと思っていたのです。だから出席できなかったことは痛恨事でした。帰宅してから笠井牧師がコンパクトディスクに録画してくれたものを渡してくれました。私は失ったものの大きさに、「こんなものなんか見られるか」と思っていました。成澤さんのことも半年前から分かれと悲しみを小出しにしていましたが、やはり落胆してしまいました。そして、「落胆」とは読んで字のごとく「胆」(きも)をどこかに落としてしまうものだ」と実感しました。話がずれてしまいましたが、ヨハネ19:26では十字架につけられたイエス様が母のマリアさんと愛する弟子に向かって、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と言われ、それから愛する弟子に、「見なさい、あなたの母です」と言われています。ゲッセマネの園でペトロと共に祈り疲れて寝ていたヤコブとヨハネの兄弟の内、ヤコブは信仰のために殉教し(使徒言行録11:1-2)、ペトロも皇帝ネロによって60年代殉教しました。普通の十字架ではイエス様に申し訳ないというので、逆さ十字架につけられて殺されたと言われています。最後まで生き残ったのはヨハネです。そして、あのイエス様の母マリア、愛する我が子を失ったマリアさんはそれからどうしたのでしょう。
3年前エーゲ海クルーズに行った際、5月29日エフェソスに行きました。エフェソスは2度目でしたが、3年前は、母マリアが暮らし、祈っていた家に行ってきました。まあ、別の伝承ではマリアさんはエルサレムで死んで、そこに「眠れるマリア修道院」が建てられているらしいです。また、ローマ・カトリックではマリアさんは、エノク、エリヤ、イエス様に続いて被昇天されたことになってしまいました。ですから、これは伝承の一つです。エフェソスにマリアが晩年を過ごした住居があり、少し上った山の中腹に「聖ヨハネ教会」とヨハネの墓があります。さて、よぼよぼになった高齢のヨハネは両脇を弟子に支えられてエフェソ教会の主日礼拝にくると、とぼとぼと講壇に上がり、ひと言、「兄弟たちよ、互いに愛し合いなさい」と語ったそうです。毎週ヨハネは説教壇の処に招かれ、同じように。「兄弟たち姉妹たち、互いに愛し合いなさい」と死ぬまで繰り返したそうです。ヨハネがエフェソスにいたことは2世紀前半の伝説にまで遡ります。たぶんこれは伝説です。しかし、私は素晴らしい伝説であると思います。
私もヨハネに倣って、4年前の説教の最後に言葉を繰り返しましょう。「もし私たちが閉じた心を開くなら、そして人を赦すということ、この最も困難なことに向かって心を動かされるなら、それはまさに奇跡であり、主イエスの復活のいのちを、皆さんも経験し始めていると言って良いのです。」
祈りましょう。
神様、イエス・キリストの復活に感謝します。ここに集う一人ひとりにいのちと喜びと希望である聖霊の息吹をお与え下さい。生きづらい世界にあって心を開いて生きる勇気をお与え下さい。自分とは違い、時にいたく私たちを傷つける人たちと共に生きる喜びをお与え下さい。主イエス・キリストの名によって祈ります。