1: サドカイ派の人々
今日、登場するこのサドカイ派の人々は「復活はない」と考えていました。復活を信じないサドカイ派の人々は、復活があった場合の不合理性を示す一つの話として、一人の女性が七人の兄弟と結婚した場合に誰の妻となるのかという話を出してきたのです。このことは申命記に記されているレビラート婚という制度からの話です。レビラート婚とは、その家系が途絶えることのないように、兄が跡継ぎを残さずに死んだ場合は、その兄弟が兄の妻と結婚する義務があるという制度です。このような場合にこの女性は一体だれの妻となるのか。サドカイ派の人々は、復活は不合理なことであり、復活はないと考えていたのでした。
2: 神の御言葉としての聖書
サドカイ派の人々は聖書を生活のルールブックのようなものと理解していたのです。聖書を単なる歴史書として読むとき、その年代、年数、人名等はあまりにも不正確で、不合理な書物となっています。私たちは聖書をどのように読めばよいのでしょうか。聖書は神様の御言葉であり、神の愛を教えるために記されたものなのです。旧約聖書も、新約聖書も、その中心にイエス・キリストの十字架と復活という神様の愛があり、その福音を土台としていただく神様の御言葉なのです。
3: 天使のようになる
多くの人が死んだら「天国」「極楽」に行くと考えていると思います。その時に考える「天国」とは、今の生活の延長上として考えているのです。それに対してイエス様は「天使のようになる」と言われました。それは、人間の思いを超えて新たな命を得ることを表しています。
一つ気を付けなければならないのは、今生きる私たち人間の姿が汚れた者と思ってしまうということです。私たちは、今、すでに神様の愛をあふれるほどに受けています。神様は私たちを無条件で愛されているのです。
4: 生きている者の神
神様はアブラハム、その子孫との間に契約を立て、「あなたを祝福する」「わたしは彼らの神となる」と言われたのです。神様はこの契約を守られ、奴隷とされていたイスラエルを救い出されたのです。イエス様は言われました「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(32)この時、イエス様ご自身が十字架という死に向かわれる中にありました。そのような中、神様は死を超えて働かれる方、命の神であることを語られたのです。私たちは今、死を超えて働かれる神様の愛を頂きたいと思います。(笠井元)