特別集会

 

 

幼稚園集会

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


アクセスカウンター カウンターカフェ

2021.4.25 「キリストの約束」(全文) マタイによる福音書18:18-20

1、二人か三人?

「二人または三人がその名によって集まるところには、私もその中にいる。どんな願い事であれ、二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる。」

これはイエスキリストが語られた言葉です。皆さんはこの言葉をどうのように理解されているのでしょうか。文字どおりに意味を受け取ろうとすれば、恐らく「二人、三人いれば、心を一つにして求めるならば、イエス様が真ん中にいて、どんな願い事でも神様は叶えてくださる」というふうに理解されるのでしょう。しかしこのような文字通りの解釈をしてしまうと、ある疑いを抱かせてしまう恐れもあります。「二人また三人による集まり、祈りでなければ、イエス様が隣にいて下さらないのかもしれない。一人でどんなに熱心に求めても、一人の力では弱いから、その祈りや願いが神様に叶えてもらえないのかもしれない」という疑い、誤解が生じる可能性はあります。私も昔、そのように誤解したからです。では、今日の聖書の箇所では、一体イエス様がここで何をおっしゃりたいのか。マタイによる福音書の編集者はどのような意図を持って、このイエス様の言葉をここに入れたのか。今日はご一緒に考えたいと思います。

 

2、祈りについて

「心を一つにして求める」という言葉がありますが、これは「祈ること」として理解することが多いです。皆さんは、祈りのことをどのように受け止めていらっしゃいますか。自分の努力によってはどうすることもできないことを、「神」の力によってどうにかしようとすることが、「祈る」ということであるのでしょうか。まあ、祈りにはそのような意味も込めていることは確かです。しかし人によっては、祈ることは、自分の願いを都合よく叶えてくれる魔法の力であるというふうに誤解してしまうこともあります。長年信仰生活を送られてきた方は、きっとお分かりになると思います。祈りとは、必ずしもそのようなものではないことを。祈りが叶わないどころか、自分の期待とは真逆な結果になってしまう時だってあることを経験することはあるでしょう。その時に、「あ、一人ではなく、もっと多くの人と心を合わせて祈れば良かった」と反省するのかもしれません。しかし本日の聖書箇所では、登場するイエス様はここで、単純に祈りの本質について、または祈りの人数について語られているのではないと思います。

この御言葉が語れた背景を見ていきたいと思います。古代ユダヤ教では、集まって共同の祈りを捧げるには成人男子十人が必要とされました。しかし、イエスキリストの名によって集められた共同体、すなわち教会は、その制限を捨て、二人でもよい、いや、二人さえいればよいとしました。つまり、ここでは、人数が多ければ多いほどいいと言っているのではなく、逆に「人数は問題ではないよ」と教えるのです。この言葉は、私たちの個人の欲望や願いについてどう祈るかを教えるものではありません。ユダヤ教の伝統にしろ、キリスト教の教えにしろ、ここで注目すべき共通点があります。それは、ここでの祈りは、信仰の共同体を前提としたものであるという点です。

 

3、個人化と共同体

 今日は聖書に出てくる信仰者の共同体に触れる前に、単純に「共同体」という言葉を考えたいと思います。共同体という言葉は意外と多く使われていない気もするのですが、その代わりに、「コミュニティ」や「地域」や「所属」、「連帯」や「絆」などの言葉が良く使われています。なぜこのような言葉が多く使われるのか、その理由は二つあるのかなと思います。一つは、私たちの人間社会は、人々の「つながり」によってしか形成されないという理由です。私たちは皆、自分の意図とは関係なくある家族に生まれ、地域社会のなかで育ち、小さい頃から他者と関係を結ぶことを学びます。そして、他者と関わり、繋がりを持つ中で、自分がこの世界の中に存在することの意味を確認していきます。他者がいなければ、自分は生きていけない。そういう意味では、共同体の存在が非常に大切になってきます。もう一つの理由は、これとは逆の現象、すなわち、世界的規模で進行する「個人化」現象が関係するように思われます。この現象は時代や社会の変化によって引き起こされるもの、すなわち私たち周りの社会や人々の暮らしの移り変わり、あるいは一つの時代の思想がその現象を生み出したとも言えます。例を挙げて説明いたします。

 例えば、近代前の社会において人間は、まとまった小さな集団の中で暮らしており、その共同体内部での人間関係は融合状態にあります。適当な距離を置きながら、互いに声掛け合ったり、助け合ったりして、相互扶助が成り立っていました。私の祖母の世代、また母親の世代もそうですが、幼い頃から暮らしていた村は、一つの共同体であり、その共同体は彼女たちにとって「世界」そのものであると言っても過言ではありません。そこから離脱してしまえば、自分たちの存在が否定されてしまうかのように捉えることも十分あり得ます。しかし、近代はどうでしょうか。生産技術や交通手段、インタネットによる通信手段の発展によって、私たちの社会生活の範囲が広がりました。今までの村落共同体や宗教団体など、これまで勢力を誇っていた共同体は次第に衰退し、人々も自分が「共同体」に属する一人であるよりも、「個人」として存在することを意識するようになりました。また、思想面においても「個人化」の方向に走っています。18世紀後半、人間の自由と平等、人権が宣言されたフランス革命において、ドイツの哲学者ヘーゲルは支持者の一人としてある革命思想を説きました。「わたしはわたしが自己を失わずにわたし自身であるときに自由である」と。つまり、「自己自身のために存在する人間は自由である」と主張するのです。このような啓蒙思想は、伝統的な権威の個人に対する拘束を否定し、個人的な自由や自律性がより強く強調されました。しかしその反面で、自己意識決定、自己責任論も次第に広がり始めました。更に、近年競争社会がやってくる中で、他者を仲間と見做すどころか、競争相手と見なしてしまう現象、また雇用の問題で、同じ職場で働く人でも、会社に所属していない非正規社員が多数いる現象、それに加え、高齢化社会、若者の一人暮らし、複雑で面倒な人間関係から逃げてしまう人が多く見られるなど、家族をはじめとする様々なコミュニティの共同性、連帯性が希薄化しているのです。

私は一人っ子政策が導入された80年代の中国で生まれました。幼い頃から、一人でいる時間が多くて、一人で遊ぶのが上手です。更に外国での留学生活を通して、自立を学び、大学や進路を殆ど自分一人で考え選択していました。性格の面においては、明るい性格というより、内向的で、基本的に一人で居ることが好きです。まあ、皆さんの中にも、私みたいに、一人でいると楽で、面倒なことが無いと思う人、一人で居る穏やかな感覚が好きな人が多いのではないでしょうか。そう、今、私のようなタイプの人間が主流です。そして私より若い世代、10も年下の徐さんや更に年下の大学生たちは更に個性的です。極端に言うと、スマートフォン一台さえあれば、ごはんがなくても充実な一日を過ごすことができる世代が増えています。このような私、また若者を前に、コミュニティ、所謂「共同体」という言葉を切り出しますと、「えっ」という反応が返ってくるのは自然かもしれません。さて、このような時代と人達の前で、教会の歩み、福音の伝道がどう変わっていくのだろうか。

 

4、キリストの約束、神の共同体

 聖書のイエスの言葉からヒントを頂きたいと思います。今日選んだ聖書箇所1818節の前から、すなわち18章全体が、信仰共同体として出発しようとしている人々、教会に向けて語られています。イエス様は、ご自分の弟子をはじめ、教会に集まってくる人々の欲望、傲慢による罪深さをご存じの上で、どのような人は天の国で一番偉いかということを教えます。そして弟子たちに、自分が子どものように小さく、弱いことを忘れず、常に謙虚であることを勧めました。続いて、恵みによって呼び集められた共同体の一員になれば、小さい者を軽んじることなく、迷いの中、貧しい中にいる仲間の羊を探し、ケアし、愛するという価値観を共有しました。更に信仰共同体おいて起こり得る問題を指摘し、解決策を講じるようにと伝えます。最後に、人間関係のトラブルがあるとき、赦しと主にある和解を勧めました。つまり、ここで一気に色んなことが語られています。「私の名によって集められた、共同体の中にいるあなたは、弱くて小さなもののままでいい、そのありのままのあなたが愛されている。しかもそんなあなたに使命が与えられている。弱いものと関わり、助ける使命、人を神と、人を人とを和解させる使命をあなたが持っている」。そして、18章にある中心的な聖句、今日の箇所を通して、私たちが担っている働きは、地上での働きだけではなく、天上での働きでもあること、教会という共同体は、人間だけのサークルではなく、神が共にいる神の家族であるということを知ることができます。

 信仰の共同体、それもまた自分とは違う人、自由な意志を持つ他者によって形成される共同体です。ここには、言語や生まれ故郷、年齢や価値観、性格や物事の感じ方が違う人たちが集まってきます。このような自分と全く違うタイプの人、教会に来なければ、一生出会えないかもしれない人と同じ場所に集まること、そのこと自体が神様のなさる奇跡ではないかと思うのです。「地上で心を一つにして求める」。それは正に、「地上で同じ神様を求める」教会のことを言っているのではないでしょうか。そして私たちの求めたこと、願い事、祈りには、常に弱く小さいものの姿があり、和解と平和の言葉があるからこそ、神さまが私たちと共にいてくださり、願いを叶えてくださるのではないでしょうか。ハレルヤ、主イエス、神さまが生きておられ、教会という共同体の中にいてくださる。それが、私の教会に足を運びたいと思う原動力なのです。教会で神の前に立つ、それは、恵みへの応答であり、個人化の現代社会に生きる私たちの自由かつ信仰による選択なのです。

お祈りいたしましょう。

 

私たちのことを愛し、日々関わって下さる神様、

今日は、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げることができました。ありがとうございます。

教会は、私や姉妹兄弟だけが存在する場所ではなく、イエス様が共に集う場所、神様の祝福を受ける場所であること、聖書を通して教えて頂きました。キリストの約束に感謝いたします。

 

私たちの社会や世界は今様々な問題に直面しています。これらの問題もまたコロナ感染拡大によって深刻化しています。個人化社会における孤立、無縁社会と呼ばれる現代、迷い、孤独を感じ、不安や絶望の中にある者が多くいます。そのような弱く小さな者たち、私たちに、ありのままのあなたを受け入れる共同体がある。そこにキリストが共にいるという約束を与えてくださいました。地縁、血縁、社縁関係を超えた新しい形の連帯が、価値観が教会によって生み出されていきますように。個人化した社会における自由な生き方として、信仰の共同体で生きることを選択し、キリストが与えた使命に応えて生きることができますようにお導きください。

                          (劉雯竹)