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2021.5.9 「私たちに触れられる神様の御手」(全文) エレミヤ書1:4-10

1:  エレミヤ書の背景

 今日は、皆さんとエレミヤ書から学んでいきたいと思います。今日の箇所は、預言者エレミヤが神様に召しだされた箇所となりますが、このエレミヤの召命について学ぶにあたり、まず、このエレミヤ書の時代背景から見ていきたいと思います。エレミヤはイスラエルが北イスラエルと南ユダ王国と、二つに分裂した中で、南ユダ王国において、5人の王様が統治する中で働いた預言者です。このとき、すでに北イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされており、南ユダ王国は、北からアッシリア、南からエジプトという大国に挟まれた弱小国となっていました。このような南ユダ王国において、ヨシア、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、そしてゼデキヤという5人の王様が、国を統治する中で、エレミヤは神様の言葉を語り続けたのです。

エレミヤが働く中にあって、南ユダ王国は、アッシリアに変わり勢力を強くしていたバビロニア帝国によって滅ぼされていくことになります。これがいわゆるバビロン捕囚となり、南ユダ王国は滅亡し、人々はバビロンに連れていかれ、エルサレム神殿は破壊されたのでした。そのような南ユダ王国が滅亡する中、エレミヤは神様の言葉を語ったのです。

 エレミヤの預言者としての言葉は、最初は神様に逆らうイスラエルに対して、神様の怒りと悲しみを語り、その後、南ユダ王国が滅ぶ中で、神様の計画がここで終わるのではなく、ここから新しい契約を結ぶということ、神様は決して見捨てることはないということを語ったのでした。これが預言者エレミヤの働きの背景と、その内容です。

 

2:  私たちに向けられている召命

 エレミヤは南ユダ王国、自分の国が滅亡していく中で、まさにこの世の激乱、苦難の中にあって神様の言葉を語りました。今日の箇所は、そのエレミヤの召命の時、神様がエレミヤを預言者として立てるために選び出した場面となります。

  ここで、まず覚えておきたいのは・・・このエレミヤの召命の物語は、2500年以上前の話であり、私たちには関係ないということではないということです。神様はエレミヤを選び出しました。そして、ここで選び出されたエレミヤとは、今、この時で言えば、私たち自身のことを意味するのです。神様は、今日、このみ言葉を聞く者、すべての者に、つまり、皆さんに「わたしはあなたを選んだ」「あなたを預言者として立てる」と語りかけられているのです。神様の選びにの言葉に対して、エレミヤは、「わたしは語る言葉を知りません」と言った。つまりエレミヤは「わたしにはそのような知恵も力もない」「わたしは今はまだそのような心づもりがない」と神様の選びを拒否したのです。神様が「わたしがあなたを選び出す」と言われたとき、私たちも同じように「わたしにですか?」「ありえません」と答えてしまうのではないでしょうか。しかし、主なる神様は、今、私たちに「わたしはあなたを立てる」と語られているのです。わたしたち、神様のみ言葉を、今、聞く者。それは神様のみ言葉を語る者なのです。 

わたしたちが生きているこの社会を見渡すとき、私たちに見えてくるのは、この世が、まさにエレミヤの時代のように、これからどのように生きていけばよいのかわからない、周りを見れば見るほど、また今後のことを考えれば考えるほど、希望がなくなってしまう。そのような時代となっているのではないでしょうか。

今は、新型コロナウイルスというウイルスが世界中に蔓延し、人間の力のなさを突き付けられています。それだけではありません、「自然災害」とされていますが、そのほとんどは人間の行ってきた自然、環境の破壊、人間の後先考えない自分中心の生き方のために、多発している災害が起こっている。そして、そのために多くの人々が苦しみの中に入れられているのです。皆さんは、今の社会に希望を持っているでしょうか。今のこの世に喜んで生きる道を見ることができるでしょうか。今、神様は私たちに、み言葉を与え、神様の言葉を語る者として立てられているのです。私たちは今、神様によって立てられた者として、神様の言葉を頂き、そこから慰めと励まし、希望をいただき生きるのです。

 

3:  生まれる前から選ばれている

神様はエレミヤにこう語りました。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ1:5)この世界を造り、命を造り、今も私たちを日々生かしてくださっている神様、私たちの創造主なる方が、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」と言われるのです。「知る」とは「選ぶ」ということです。神様は、私たちが良いことをしたからでも、何か特別な能力を持っているからでもなく、ただ神様ご自身の選びのうちに、私たちを選びだされているのです。この「神様の選び」という出来事は、選び出された者が偉いとか、選ばれない人がいるということ、いわゆる選民思想を持つために語っているのではないのです。

 神様があなたを選んでくださった。それは私たちの意志とは関係なく、それこそ人間の不安定な心の動きとは関係なく、絶対に変わることのない神様の意志が、私たちを愛してくださることを決定しているということです。神様は、あなたを愛されている。わたしたちを愛してくださっている。この事実は何があっても変わることはないのです。

 同時に、それは、これまでの私たち、そして今生きる私たち、そしてこれからの私たちのすべてを知っておられるということでもあります。神様は、わたしたちのすべてを知ったうえで、私たちを選ばれているのです。

この世は、私たちを行動によって評価します。学校では、テストの点によって成績がつけられます。会社でもそれは変わりません。それだけではありません。それこそ家庭でも、そして、自分自身でも、この世界のどこに行っても、私たちは何か失敗をしてしまうとき、自分を卑下してしまい、また何か成功すると、今度は傲慢な者となってしまうのです。つまり、私たちは自分の行動によって、その評価が決められていくのです。

 しかし、神様は「わたしはあなたを聖別した」と言われます。「聖別する」。それは、ただ神様の愛のうちに生かされているということを意味するのです。神様は私たちのすべてを知っておられます。しかし、その行動、行為によって、愛する、愛さないを決めるのではなく、どのような者をも神様は愛してくださっている。そして、その神様の愛を語るために、私たちに生きる道を開かれているのです。

 

4:  わたしがあなたと共にいる

この神様の選び、召命に対して、エレミヤは「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(1:6)と言いました。このエレミヤの言葉は、ただ「若い」とか「年をとっている」ということを言っているのではなく、「自分の弱さ」「無力さ」を語っているのです。エレミヤは、「自分は語るべき神様の言葉を知りません」と言います。これは普通に考えれば当たり前のこと、私たち人間が、神様の真理の言葉、神様の愛の言葉を知るわけがないのです。私たちは、「自分は、神様の言葉を語ることができる。私は神様の愛を完全に知っている。」ということは言えるはずがないのです。

私たちはすべての者が無力な存在なのです。そして、だからこそ、そのような者に対して神様は「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」(1-7-8)と言われたのです。

「わたしは無力な者です」とする者。神様はそのような者に対して、「恐れるな、私があなたと共にいる」と教えてくださるのです。

 

5:  主が手を伸ばして触れてくださる

そして、神様は「共にいる者」として、手を伸ばして、エレミヤの口に触れられました。これは、神様が、その手を伸ばし、私たちの人生に触れてくださること、つまり、入ってこられることを意味します。神様は、イエス・キリストという神の子をこの世界に、そして私たち一人ひとりに送って下さることによって、私たちの生きる道にきてくださったのです。神様は手を伸ばして触れてくださる。つまり、イエス・キリストをこの世に送り、私たちの人生に触れてくださるのです。

神様は、神様の愛、神様のみ言葉を語る者として、私たちを愛して、選び出してくださいました。そしてそれは、ただの命令ではなく、神様ご自身が私たちの人生に触れて、私たちと共に生き、私たちの痛みも苦しみも、すべてを共に感じてくださり、担ってくださることを意味しているのです。主が共にいてくださる。私たちは、この神様が私たちのところに来てくださり、共にいてくださるという事実を受けて、神様の愛を語りましょう。私たちは愛されている。私たちは、ただ頂いた愛の恵みを語り続けたいと思うのです。 (笠井元)