今日は、「あなたの主人は誰ですか」という題にさせていただきました。先日、福岡で、5歳の子どもが十分な食事を与えられずに、餓死するという事件が起こりました。この事件は、母親が一人の知人を信じて、その人にすべての生活費を渡し、コントロールされていったことによって起こったとされています。この母親は、一人の知人にマインドコントロールされ、完全な奴隷状態となっており、その結果として、息子を死なせてしまったのです。
このニュースを聞いたとき、皆さんはどのように思われたでしょうか。「可哀そうに・・・」とか「こんな事件がなくなってほしいと」思われた方もおられるのではないでしょうか。そのような中、「わたしはだったらこんなことにはならない」とは思われなかったでしょうか。「わたしは違う」「わたし誰かにコントロールされることはない」とは思わなかったでしょうか。しかし、覚えておいてほしいことは、人間は誰もが何かに囚われているということです。囚われているというと、抵抗があるかもしれませんが、私たちは、何をするにしても、その行動のために、いくつかの選択肢から自分なりの基準から、考えて、選び取り、決定して行動していくということです。
皆さんも、洋服や髪型を考えるときは、そのときのファッションの流れで決めていくこともあれば、自分自身のポリシーみたいなもので決める人もおられるでしょう。わたしの知り合いには、その時、その時の流行に合わせるため、何百万円といった借金をもった人もいます。その人に私が何を言っても耳をかしてはくれませんでした。それが、その人のなりの基準で考え、選んだ道だったのです。
子どもを餓死させてしまった母親は、マインドコントロールをされた中でのことだとは思いますが、子どもに食べ物を与えるのではなく、一人の女性の聞くという道を選び取ったのです。
今日は、「あなたの主人は誰ですか」ということ。それは、「私たちの生きる、生き方を決定しているものは何なのか」「自分が何を求め、何のために生きているのか」ということを共に考えたいと思うのです。
1: ダビデの子メシア
イエス様は、ファリサイ派の人々に「メシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」と問われました。メシアという言葉は、もともとは「油注がれた者」という意味で、この言葉をギリシア語にしたのが「キリスト」であり、「救い主」という意味です。イエス様のことを「イエス・キリスト」と呼びますが、イエスとキリストという言葉は、苗字と名前ではなく、「イエスは救い主である」という信仰告白の言葉なのです。私たちが、イエス様のことを「イエス・キリスト」と呼ぶ時、そこには、イエスを主、救い主とした信仰の言葉が証されているのです。
イエス様は、この「メシア、救い主は誰の子だろうか」と問われたのです。
この問いにユダヤのファリサイ派の人々は即座に「ダビデの子です」と答えました。当時のユダヤの人々は、「メシア、救い主はダビデの子として来られる」と信じていたのでした。
「メシアはダビデの子である」というときに、それは、ローマ帝国に支配されていたユダヤの人々にとって、新しくイスラエル王国を再建し、その栄光と繁栄をもたらす王として、メシア・救い主を考えていたのです。
ダビデ王、またその子どもソロモン王によって繁栄したイスラエル王国は、その後、北イスラエルと南ユダに分裂し、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロンに滅ぼされていきました。そしてイエス様の時代はローマ帝国の支配下にありました。そのような中、人々はもう一度、あの栄光と繁栄をもたらす王として、ダビデ王、その子としてのメシア・救い主を待ち望んでいたのでした。
2: メシアに求める救い
このような考えのもとにあるユダヤのファリサイ派の人々に、イエス様は、「メシアとは誰の子か」と問われました。それは、実際にメシアがダビデの子であるかどうか、血筋としてつながっているかどうかを問われているのではありませんでした。「メシアとはだれの子か」。それはあなたが求める「救い主」とは一体どのような人なのか、あなたにとっての「救い」とは、何を意味しているのかを問われているのです。
自分がどのような「救い」を求めているのかということを考えたときに・・・私は、思い出す昔話があります。わたしは、小さい頃に聞いていた昔話で、そのなかに「漁師とその妻の話」というお話があります。
内容を簡単に説明しますと・・・とても貧乏な生活をしている夫婦がいたのですが、あるとき男が魚のカレイを釣り上げたのです。しかし、そのカレイは「本当は自分は王子なのです。どうか助けて下さい」と言ったので、その男は助けてあげたのでした。しかし、そのことを聞いた妻は「どうせなら、何かをくれるなら助けると言ってきなさい」と言うのです。そして男をもう一度海に向かわせました。男は最初はカレイに「立派な家をください」と言います。そしてその願いはかなえられるのです。妻は最初はそれで満足していたのですが、すぐに、もっと豪華な家を頼むべきだったと考え、男をもう一度お願いに行かせます。今度は「もっと豪華な家をください」と頼みます。このお願いはどんどんとエスカレートし、「王様にしてください」となり、最後には「神様にしてください」と言うのです。しかし、それまですべてのお願いが叶えられていたのですが、この「神様にしてほしい」とお願いをしたとたん、二人はもとの貧乏な生活に戻ってしまった・・・このようなお話です。
わたしは小さい頃、この話を聞いて、「なんて馬鹿な人たちなんだ、ある程度のところでやめておけばいいのに」と思っていました。しかし、今、社会を見渡して、私たち人間が何を求めて生きているのかを考えたときに、この二人の夫婦を笑うことができないような生き方をしていると、感じるのです。私たちの生きるこの社会でも、良い大学に行って、良い仕事をして、お金を稼いで、良い家に住んで・・・と、自分の名誉、権威、財産を求めて生きている。そしてそれらを求めるように、この社会は動いているのです。先ほど紹介したお話のように、人間の願い、欲望には終わりはありません。そのいきつくところは、最終的には、自分のすべてが自分の思い通りになる。つまり、「神様になる」こととなっているのではないでしょうか。
3: 神の子 イエス
ダビデは「主は、わたしの主にお告げになった」と言ったのです。「主」が「主」にとなっているので少しわかりにくいのですが、これは「主なる神様は、わたしの主・メシア・救い主にお告げになった」と言っている。もう少しわかりやすくすると、「父なる神は、子なるキリストに言われた」と言っているということです。この時、人々はメシアを「ダビデの子」とすることで、メシアを限界づけてしまっていたのです。そのような人々に、イエス様は、「皆さんは、理想の王ダビデ、その子どもを救い主としているが、ダビデはあくまでも人間であり、本当の救い主はそのような小さな者ではない」「神様の与える救いは、そのような何かに限界づけられたものではない」と、教えられているのです。
イエス様は、神様の子ども、つまり神様と正しい関係を持つ者なのです。それは、神様の愛を正しく現すことが出来る方ということでもあります。100%、神様の御心に従い、この世で生きることが出来る方。それが神の子イエス・キリストなのです。イエス様は神様の子どもとして、この世に来られました。そして、その人生の歩み、そして行き着いた場所が十字架です。イエス・キリストは「神を自らの主」として生きて、100%神様に従い、そして十字架の上で死なれたのでした。これが神の子が現した、神様の愛です。
4: イエスをキリスト救い主とする
私たちはいったい誰を自分の主人として生きているでしょうか。イエス・キリストは、神の子として、この世に来られ、私たちに神様の愛を示されました。私たちは、このイエスを自らのキリスト、救い主として生きていきたいと思うのです。イエスをキリスト、私たちの主人とすること。それはイエス・キリストが生きられた道、神様に仕える道、神様の愛を表す道、神様の栄光を表す道を生きていくということです。
ルターは、イエス・キリストを信じて生きることを、「キリストの奴隷となる」ことだと言いました。誰でも「奴隷になんかなりたくない」と思うかもしれません。しかし、最初に言いましたように、わたしたち人間はだれもが、何かに囚われているのです。もう少し言い方を変えると、人間は、それぞれに生きる価値観、判断基準を持っており、生きる指針、アイデンティティを持っているということです。そして、それがその人の主人となっているとうことです。私たちは誰を、そして何を主人としているでしょうか。私たちは、今日、もう一度、自分が何を大切にして、何を求め、何のために生きているのか、考えてみたいと思うのです。
聖書は、神様の愛を受け、その愛に生きた方、イエスをキリスト、私たちの主人とすることを教えているのです。私たちは、神様が御子イエス・キリストの命をかけて、私たちに与えてくださった、その愛の御業を心の中心に置いて歩んでいきましょう。(笠井元)