1.ペンテコステ(五旬節)の3つのキーワード:言葉、聖霊、教会
今日の礼拝における説教に関わる聖書朗読としては、使徒言行録2:1~6を読みました抜粋要約すると、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、…一人一人に聖霊が下り、イエス様の復活の良い知らせを『だれもかれも、自分の故郷の言葉』で聞いてあっけにとられた」と言うことです。多様な言葉で福音を語り、様々な言葉で福音を聴くこと、「言葉」が「五旬節」のキーワードの一つです。
今日は「ペンテコステ」と呼ばれる日曜日です。過ぎ越しの祭りの第2日(イスラエルの正月ニサンの月の16日)から数えて50日目です。つまり、イエス様の十字架の苦難と復活をお祝いするイースター礼拝の日を入れて50日目に当たります。「五旬節」と言うのですが、ギリシヤ語では「ペンテコステ」と言います。この日曜日を挟んでヨーロッパでは数日のお休み期間です。市民がみなでお祝いします。実は、この日は、それまでユダヤ教では春小麦の収穫感謝のお祭りでした。今もユダヤ教徒はこの祭りをしています。日本でも立春から数えて八十八夜に新茶を摘みますね。ユダヤ教はこの収穫感謝の祭りを彼らの信仰に取り入れて神の言葉とされている「律法」が与えられた日としています。こうして、ペンテコステのキーワードの一つは「言葉」です。それも多様、様々な言葉で、神様に聴くこと、神様を語ることです。
ペンテコステのキーワードの2つ目は、聖霊の降臨です。そこで聖霊にちなんで、ヨハネ14:25~26節を読んでもらいました。ペンテコステのキーワードの3つ目は、「キリスト教会の誕生日」であることです。ハッピ・バースデイ・トゥー ・ユー・キリスト教会を歌う日です。そこで、説教の題を、聖霊の経験と教会を結合して、「交わりを造り出す霊」としました。
2.ヨハネ14:25~26と山浦玄嗣さんのこと
もう一度、ヨハネ14:25~26を読みます。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起させてくださる」。ローマ・カトリックの医者である山浦玄嗣(はるつぐ)さんが、東北の「気仙沼」語の新約聖書を出版され、話題になりました。私はあわてん坊ですからその聖書を買おうと思って買って読もうとしたら何と「気仙沼語」ではなく、「セケン」語でした。「やられた!」と思いました。彼のことを取りあげたのは、東日本大震災後10年という節目もあります。彼の書斎は東日本大震災で流されて、彼の今までの業績がいわば「水の泡」となってしまいました。しかし、彼は、「そうか、あんたがそうくるなら、俺もやるぞ!」と言って不屈のキリスト教信仰、東北人魂を見せてくれています。そのセケン語のヨハネ福音書14:25~26は、こうなっています。
「俺がそなたらといた間、このことをずっと語りきかせている。父さまは俺の代わりに助っ人さまをおよこしなさる。これこそは、神さまの尊い息の吹く風だ。神さまの息の吹く風は、お前たちすべてを教え、俺が語ってきかせたことをすっかり思い出させてくださる。(『ガリラヤのイェシュー』イー・ピックス出版、2011年、600-1頁)。
3.パラクレートス:助け主、慰め主、弁護者
新共同訳で「弁護者」と翻訳され、口語訳では「助け主」、讃美歌では「慰め主」と翻訳された言葉は「パラクレートス」というギリシヤ語です。その意味は、「傍らに呼びされた者」という意味であることは説教で何回かお話しました。傍らに呼び出され一緒にいてくださり、弁護して下さり、助けてくださるから「慰め主」でもあられる訳です。山浦さんは、「助っ人」とセケン語で翻訳しています。それが本当に、世間一般の言葉であるかは別にして、面白い翻訳です。ここからが今日のメッセージの中心です。父なる神は、私たち、そして、皆さんの傍らにおられ、共におられるお方であり、イエス様と共におられるお方ですから、「助っ人さま」です。(参照IIコリント1:3~7)この父なる神様はイエス・キリストを私たちの傍らにおられるお方としてこの世界に派遣して下さいました。まあ、助っ人さまの第二号というか、「助っ人さまの助っ人さま」です。ですから、み子イエス様も「助っ人さま」と呼ばれています。(参照Iヨハネ2:1)イエス様が十字架で殺され、弟子たち、私たちの前から見えなくなってしまった。しかし、どっこい、今度は、「聖霊」という助っ人さまを派遣して下さったのです。助っ人さまの第三号というか、いわば、「助っ人さまの助っ人さまの助っ人さま」です。この聖霊さまは、イエス様の憐れみ、正義と愛の言葉を、その癒しのみ業を思い出させるお方です。
4.徹頭徹尾神のみ業:三位一体の神
なぜこうなっているかと言うと、父なる神の助っ人さまは、私たちより少し離れておられる、天におられるので、距離があるからこそ、私たちを助けることがお出来になるわけです。み子なるキリストは「助っ人さまの助っ人さま」ですが、この方は私たち、みなさん一人一人をすぐに助けるために、まさに傍らにいてくださるわけです(stand by me)。では、なぜ、聖霊なる神、つまり、助っ人さまの助っ人さまの助っ人さまがおられるかと言うと、このお方は、私たち、皆様の心の中に働いて一緒に呻いて、叫んでくださるためです。(ローマ8:26~27)だからこそ私たちを助け、慰め、弁護することができるわけです。一緒にいてくださるだけでなく、中にいてくださるわけです。こうして、私たちは「助っ人さまに取り囲まれ、護られているわけです。どこまでいっても徹頭徹尾神様の働きであるわけです。難しい用語を使うと「三位一体」の神信仰となります。ですから、教会カレンダーは来週から三位一体節に入るわけです。三位一体の神は、これは頭で考えると良く分からないので、神の愛は神から始まり神に終わる徹頭徹尾神の恵みであることを告白しようとして信仰の先輩たちが考えたことです。苦心の信仰告白ですから、心で感じるしかないのでしょう。たぶん、「頌栄」で褒めたたえることができるだけなのかも知れません(G. Ebeling, Dogmatik des christlichen Glauben)。今日も、頌栄672で礼拝を終え、新しい週を始めましょう。(松見俊)