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2021.5.30 「イエス・キリストを心に迎え入れる」(全文) マタイによる福音書23:1-12

1:  ファリサイ派の人々

 今日の箇所で、イエス様は「律法学者たち、またファリサイ派の人々の行いは見倣ってはならない」と言われました。今日のみ言葉を読む上で、まず最初に律法学者・ファリサイ派という人々について理解しておきたいと思います。聖書では、律法学者・ファリサイ派の人々というのは、何度もイエス様と意見が衝突し、その信仰をイエス様に批判され、最終的には、イエス様を殺そうと扇動した人々として登場します。そのため、キリスト教では、律法学者・ファリサイ派の人々とは、ここであるように、言うだけで実行しない人々、人に重荷を背負わせ、自分たちは何もしない人々、そして「先生」と呼ばれ、偉そうにしている人々・・・つまり神様を大切にせず、信仰的に間違った人と、レッテルが張られてしまっていることが多くなっています。

 しかし、本来の律法学者・ファリサイ派の人々というのは、そのような人々ではなく、神様に従い、神様が与えられた律法を熱心に守っていた人々でした。聖書の登場人物でいえば、伝道者のパウロも、もともとはファリサイ派として信仰を持ち、熱心に聖書を学び、律法を守っていたのでした。ファリサイという意味は、「分離された人々」という意味で、自分たちの信仰が堕落することのないように、律法を守らない人と関わらないようにした「分離した」のです。それほどに、熱心に律法を守ろうとした人々でした。

当時のユダヤ教には、いくつかの宗派がありましたが、もう一つの大きな宗派として、サドカイ派という宗派がありました。サドカイ派は神殿において権威を持つことから、富裕層に支持され、この世での幸せを求め、復活を信じていない宗派でした。それに対してファリサイ派の人々は、復活を信じて、貧しい者たち、民衆の中にきて、律法について語り、貧困層の人々に支持されていた人々でした。 そのような意味では、ファリサイ派の人々は、どちらかといえば、バプテスマのヨハネ、そしてイエス様と近い立場であったのです。そしてだからこそ、イエス様の意見との衝突があったのでもあります。

 

ここでも、イエス様は「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」(マタイ23:2-3)と言われています。

 

2:  律法に囚われた者

そのような中、イエス様は「彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(マタイ23:3)と言われたのです。

律法学者、ファリサイ派の人々は熱心に律法を大切にしていました。しかし、その熱心さから、神様の恵みによって救われ、生かされているということから離れ、むしろ律法を守ることを第一としてしまったのです。つまり、律法を守らなければ、神様の愛を受け取ることができない、律法を守らなければ、その人は罪人だと、むしろ律法によって神様に従うのではなく、人を裁く者となってしまったのです。律法を守ること。神様のみ言葉を守ることはとても大切なことです。しかし、ファリサイ派の人々は、そのことに囚われてしまったのでした。

このファリサイ派の人々の姿から、私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか。

ルカによる福音書ではファリサイ派の人の祈りとして、このような祈りが記されています。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」(ルカ18:10-12

ここではファリサイ派の人は「わたしが罪を犯すような者ではないことを感謝します」と祈りました。つまり、自分が律法を守ることで、他者を蔑み、見下した姿、神様の愛を忘れてしまっている姿なのです。

 

3:  神の愛を忘れてしまった

今日の箇所では、いくつかの例を挙げて、権力、地位を求めることではなく、へりくだる者となりなさいと教えています。5節では「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」と言われます。「聖句の入った小箱を大きくする」また「衣服の房を長くする」。これらは、旧約聖書に記されていることで、どちらも、本来は神様に従うために示されたことでした。しかし、それがいつの間にか、自分の信仰を見せびらかすもの、パフォーマンスとなってしまったのです。律法学者、ファリサイ派の人々は律法を守ることを大切にしました。しかし、そこから、いつの間にか、律法を守ることを見せびらかし、むしろ律法を守らない人々を裁き始めてしまったのです。

イエス様は「ファリサイ派の人々の言うことはすべて行いなさい。しかし、その行いは見倣ってはいけない」と言われました。律法学者、ファリサイ派の人々は、律法を守ることだけに目を向けてしまい、その律法本来の意味、神様に愛されている、神様に愛をお返しするということを忘れてしまっていたのです。神様はすべての人間を愛してくださっています。それは、人間が律法を守っているからでも、何か良いことをしているからではないのです。人間が何もしなくても、むしろ神様から離れていってしまったとしても、罪の道を歩いていこうとも、それでも神様は私たちを愛してくださっている。そのような私たちの隣に来てくださるのです。そのことに変わりはないのです。神様はすべての者を同じように愛してくださり、すべての者に救いを注いでくださっているのです。

ファリサイ派、律法学者はその根本的な神様の愛を忘れてしまっていた。そしていつの間にか、正しく神様に従うのではなく、自分のため、自分の名誉や地位のため権威のために、律法を守る者となってしまっていたのです。

 

4:  へりくだり続けた イエス・キリスト

このような中、イエス様は、「師は一人だけ、父は天の父お一人であり、教師は、キリスト一人である」と言われました。他の何者でもなく、天の父、神を神として生きるということ。それは自分が偉いとか、隣の人は罪人だということもなければ、自分は汚れているとするのでもなく、ただ神の子として生かされているということを受け入れることなのです。このことを人生の最後まで受け入れ、神様を神様として、へりくだり続けた方。それがイエス・キリストです。

フィリピではこのように言われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:6-8

私たちのただ一人の教師、イエス・キリストは、神の御子でありながら、自分を無とされ、死に至るまで神様に従ったのです。私たちの心のうちには「自分」があります。言い方を変えると、「自己」「アイデンティティ」「価値観」「判断基準」が、自分の中にあるのです。イエス様は自分を無にされた。それは、自分心の中心に神様に来ていただいたということ。そしてそれは、「神を神とした」ということなのです。その自分の全てを神様に差し出す時、神様を自分の神とする者、私たちは神様にへりくだる者とされるのです。

 

5:  イエス・キリストを心に迎え入れる

イエス様は、11-12節において「仕える者、へりくだる者となりなさい」と言われました。私たちは、まず、心の中に、イエス・キリストを迎え入れたいと思います。へりくだることは、父なる神を自らの神として、キリストを教師としてへりくだることから始まるのです。「このように生きていきたい」と思うことは大切なことです。しかし、それが、神様の愛、神様の御心を忘れてしまったものであるとき、それはただの自分勝手なものでしかなくなってしまうのです。自分勝手な自分の理想の生き方は、神様の前にあって、本当の正しい生き方とは言えない。それはただ、自己中心的な生き方となってしまうのです。今日の聖書に登場した、律法学者・ファリサイ派の人々は、まさに、そのような思い、自分で作り出した正しさ、自分の正義、自分のための律法に生きる者となってしまっていたのです。

私たちはまず、心にイエス・キリストを迎え入れたいと思います。そして、神様のみ言葉に聞き、神を神として、キリストを教師として、キリストが歩んだ道を歩んでいきたい。そのときに、本当の意味で、仕え合う者、へりくだる者として歩むことが始まるのです。そしてそのときに、本当の兄弟姉妹として関係を始めていくことができるのです。私たちは、神様の愛を受けて、共にへりくだりあい、共に仕え合う兄弟姉妹として歩んでいきたいと思います。(笠井元)