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2021.6.6 「本当の幸せとは」(全文) マタイによる福音書23:13-24

「本当の幸せとは」

2021.6.6 マタイによる福音書23:13-24

 

1:  幸せと不幸せ

今日の箇所を含む、マタイ23章13節から36節において、イエス様は「律法学者たちとファリサイ派の人々」に対して「あなたたち偽善者は不幸だ」と言われ、7つの不幸のことを語られたのでした。今日は、その中の、最初の4つから見ていきたいと思います。

ここでは7つの「不幸」が示されますが・・・マタイによる福音書では、有名な山上の説教の最初、5章において「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉からはじまり、8つの「幸い」について語られます。

まず、この「幸せ」と「不幸せ」について、考えてみたいと思いますが、・・・皆さんにとって「幸せ」とはどのようなことであり、また「不幸せ」とは、どのようなことを意味しているでしょうか。「幸せ」という言葉について、辞書で調べてみますと、「1、運がよいこと、2、その人にとって望ましいこと。不満がないこと。3、めぐりあわせ。運命。4、運がよくなること」と、このように記されていました。逆に「不幸」の意味を調べてみますと、「1、幸福でないこと。2、身内の人などに死なれること」と記されていました。この世においての幸せとは、「運がよいこと」「その人にとって望ましいこと」「不満がないこと」・・・これが、この世の幸せであり、そうでないことが「不幸」とされているのです。つまり、この世における「幸せ」とは、自分が望んでいることが叶うこと。自分の思い通りに生きることができているということ、言い換えると、自分の欲求を満たすことができることと言うことができるのです。

このようなこの世の価値観のなかで、世界では、世界幸福度ランキングというものがありますが、153か国の中で、日本は62位とされています。あまり良いとは言えないと思いますが・・・日本では、それぞれにとって望み通りの人生をなかなか送ることができていない、ということだと思います。ただ、どこにあっても、「幸せ」を、自分の欲求を満たして人生を送ることができるようになると考える限り、すべての人が幸せになることは難しいとも思うのです。この世においては、自分の思いを達成して生きることが出来ている人もいれば、そうでない人もいます。そのことを「勝ち組」「負け組」というのでしょう。また、そのように自分の欲求を満たして生きていたはずが、そこから転落していくこともあるのです。この世において、それは「幸せ」から「不幸せ」になったというのでしょう。

皆さんは、どのような時に幸せを感じ、どのような時に、自分は不幸だと感じているでしょうか。

 

2:  自分の力で神の恵みを手に入れる

 イエス様は、まず一つ目と二つの目「不幸」として、13節から語られました。ここで語られているのは、天の国に入ること、改宗者として神様を信じるということについてです。先週もお話しましたが、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、神様に与えられた律法を大切にし、熱心に守る人々でした。このこと自体はとても大切なことです。それこそ、私たちも聖書の教えている御言葉を聞いて、その言葉に従って生きていきたいと思います。律法を守ること、神様のみ言葉を聞き、従い生きることは、神様の恵みに対する応答です。神様が私たちを愛してくださっているという、無限の愛、無条件の愛を受けた者として、喜んで生きることなのです。

ファリサイ派、律法学者の人々は、確かに律法を守っていました。しかし、ファリサイ派、律法学者の人々は、律法を守ることで、神様の愛を得る者になれると考えていた。つまり。自分たちの力で、神様からの幸せを頂こうとしたのです。この時に人々が神様に求めたのは、「自分の願いが叶うこと」であり「自分の望みのようになること」だったのです。つまり、この時のファリサイ派、律法学者の人々の求めるものは、今、私たちが生きるこの世の価値観における「幸せ」、と同じことでした。

 

3:  神を忘れて律法を守っている者

 続けてイエス様は16節から「誓い」について語ります。ここでは、神殿、祭壇、天という言葉が出てきますが、ユダヤ教では、「神」という言葉を語ることを避けて、神様を表す言葉として「天」「神殿」「祭壇」という言葉を使ったのでした。つまり、ここでは、天、神殿、祭壇という言葉で表す神様よりも、そこにある黄金や供え物に目を向けてしまっていることを意味しているのです。

続けて23節から、イエス様は、献げ物についても語ります。ファリサイ派の人々、律法学者たちは、細かく厳密に律法を守ろうとしていました。ここでイエス様が「十分の一の献げ物もないがしろにしてはならない」と言われたように、そのこと自体が悪いことではないのです。しかし、この時、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、細かく厳密に律法を守ろうとしていながら、神様の「正義」「慈悲」「誠実」を忘れてしまっていたのです。そのような者を指してイエス様は「あなたたち偽善者は不幸だ」と言われたのです。

 

4:  偽善者 神様を畏れない者

イエス様は、このファリサイ派の人々、律法学者たちを、「偽善者」と言いました。偽善者とは、他者からどのように思われるかばかりを考えている、そのようなことばかりに心を奪われ、神様との関係を必要としていない者を意味します。つまり、神を忘れてしまっているということ、神様との関係を求めていないということ、そしてそれは、神様を畏れていないということでした。ファリサイ派の人々、律法学者たちの最大の間違いは、神を畏れていないことでした。エス様はそのような者を「偽善者」と呼び、そのような者は「不幸だ」と言われたのです。

 

5:  本当の幸せ

 イエス・キリストが求めたのは、何よりも、神様を畏れること、神様に目を向けること、神様の恵みを必要とすることです。イエス様が教える「幸せ」とは、自分の生きる状況が、自分の思い通りではないとしても、どのような時も、どのような場面でも、神様が私たちを愛してくださっているということを覚えていること。そしてその神様の愛を受け取ること。そこに本当の幸せがあると教えているのです。

第二次世界大戦の時にアウシュビッツ強制収容所に送られたヴィクトール・フランクルという人はこのように言いました。「人は、この世にはもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。」と語ったのでした。

この言葉は、どれほどの苦痛の中にあったとしても、それが完全な不幸ではないとする。そこに愛する人、愛があれば、そこに「幸せ」を得ることができるというのです。神様は御子イエス・キリストの死を通して、私たちに愛を示されました。神様の愛は、人間が思いつくかぎりの悲惨な状況、十字架の上におけるイエス・キリストの死によって実現されたのです。神様の愛は、何があろうとも、どのような状況にあったとしても、変わることはありません。ここに神の愛があるのです。  私たちがこの神の愛を信じて受け入れるとき、そして、その愛を受けて歩き出すときに、そこに本当の幸せを得るのです。   

 

今、世界中が、新型コロナウイルスが蔓延し、世界中が不安と恐怖に襲われています。このような時だからこそ、私たちは自分が何を求めているのか、何をもって幸せとするのか、何よりも、自分は何のために生きているのか・・・今一度考えてみたいと思います。(笠井元)