今日はペンテコステの主日から3週間目の主の日です。教会カレンダーでは、父と子と聖霊なる神が揃い、三位一体第三主日です。礼拝の招詞は、ネヘミヤ8:10「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」という言葉に耳を傾けました。この言葉は、何事もない世界で能天気な雰囲気で語られた言葉ではありません。捕虜にされたバビロンから70年経って、帰ってきて荒れ果てた国土を見、将来の展望を失いかけ、それでも、伝統的なモーセの律法を聴かされ、民衆は涙、嘆きの声を上げました。目を現代に向ければ、今日ほど、超高齢化による心身の衰弱、老老介護の課題、病気、仕事を失うことの不安、そして、コロナウイルス感染が突き付けてくる私たち日本社会の歪みの問題など、闇や死の力を感じない日々はないでしょう。絶望すること、不安に囚われることならだれに言われなくともストンと心に受け入れることができるでしょう。しかし、このような社会において、そのような個人個人の生活のただ内でこそ、泣き悲しむことではなく、「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」と呼びかけられています。愛する兄弟姉妹、今日のメッセージの中心は喜びの「解放」です。
1.「ナザレ」にて
選んだ聖書箇所はルカ4:16-21です。舞台は「ナザレから何の善きものが出ようか」(ヨハネ1:46)
と呼ばれた辺境の地ナザレです。マタイ福音書とルカ福音書では主イエスはあの誕生の時だけダビデの町ベツレヘムで生れたことになっていますが、4:22で言われているように、なんだ、「この人は(ナザレの貧しい石工)ヨセフの子ではないか!」と蔑まされていました。私はナザレ出身のアラブ人でクリスチャンの友人がいますが、現在のナザレの様子は分かりません。しかし、ナタナエルがフィリポに向かって言ったように、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」ということわざがあったことは事実でしょう。主イエスは「貧しい者たち」の一人、ナザレの寒村の出身でした。
2.イザヤ書61:1~2aの朗読 貧しい者の解放
ナザレの村でのある土曜日、安息日にイエス様はユダヤ人の会堂に入ると、イザヤ書の巻物を渡されました。主イエスはイザヤ書61章をお開きになりました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。ヘブライ語聖書では、「貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」となっています。ルカはヘブライ語ではなくギリシヤ語の翻訳から引用しているらしいです。暗い土牢に捕らえられ、暗さに目がやられた人が目を開かれた姿で描かれ、「打ち砕かれた心を包み」はイザヤ58:6「虐げられた人を解放し」を念頭にして「圧迫されている人を自由にし」と置き換えられています。いずれにせよ、貧しさ、捕らわれていること、視覚「障害」、圧迫・抑圧に生きる人々、生きるために必要なものを奪われ、人としての尊厳を失い、闇と死のような社会に生きる人々に「解放の福音」が語られている箇所です。世界への福音宣教を考える際、良く、マタイ28:16-20のいわゆる「大宣教命令」が引用されてきました。ボッシュという人はどうもマタイのこの個所は、イケイケドンドンのような響きがある。帝国主義的、植民地主義的領地獲得に繋がる危険がある、だからこれからは、いま私たちが読んでいるルカ4:18-21を読むべきであると言っています(『宣教のパラダイム転換』。ここには、旧約聖書の伝統との繋がりがあり、そして、「貧しくされた者」への福音、「解放」の視点があると指摘しています。私も日本バプテスト連盟の壮年大会、女性大会、その他講演、この話に言及していますが、一向に変わる気配はありません(笑い)。人の言うことに耳を貸さないことがバプテストであると思っている人たちが多いのかも知れません。生きるために必要なものを奪われ、人としての尊厳を失い、闇と死のような社会に生きる人々に「解放の福音」「自由の音信」が語られているのがこの箇所です。
3.メシア、キリストとは主イエス様のことである
主イエスがイザヤ書の巻物を係の者に返し、席に座られると、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたのです。イザヤが語った「わたし」、「遣わされた方」「福音宣教者」「霊の油を注がれた方」、つまり、メシア、キリストとはご自分のことであり、ここにイエス様が到来している、おられることによってイザヤの言葉は今、此処で、成就していると言うのです。
これを自分で言ってはおしまいだ、偉そうに聞こえると感じる方もおられるでしょう。しかし、ここで、イエス様は「貧しい者」の傍らにおられる覚悟を語っておられるのです。皆さんの反応はいかがでしょうか?「この人はあの貧しいヨセフの子せがれだ」(22節)というでしょうか?「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落そうとした」という反応をしめされるでしょうか?あるいは。「皆はイエスをほめ、その口からでる恵み深い言葉に驚いた」(22節)という反応でしょうか?主イエスの宣言はそのような躓きと恵みに満ちたもの、恵みと躓きに満ちたものであったのでした。それは、自分を「貧しいもの」として考えるか、まあ、できはしないでしょうが、「貧しいもの」の傍らにいたいと願うものとするかに懸かっているのかも知れません。「貧しいものたち」(’ānāwîm, ‘ānāw, イザヤ61:1)は「重荷を背負わされ、苦しめられ、貧しくされた」人のことです。マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのものに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから」という翻訳は元来「わたしもアーバーブ、重荷を背負わされ、貧しくされ、低くさせられた者」だからと翻訳すべきであると随分前に、お話しましたね。徹底した僕の道、十字架への道を歩まれたお方がイエス様でした。
このお方を(父なる)神が死者の中から引き上げられた、よみがえらされたのです!その証人が私たちなのです。
4.「ヨベルの年」の解放
最後に「ヨベルの年」について触れておきます。19節に「主の恵みの年」という言葉が登場します。これはヘブライ語聖書の「ヨベルの年」のことです。レビ記25:1-17に書かれていますが、まず、7年に一度安息の年があり、まあ、7年に一度畑を休ませてあげるわけです。この7年を7倍し、49年が経つと、50年目には奴隷が解放され、売られた土地はもとの所有者に変換されるという決まりです。借金をチャラにせよという規定です。土地の売買代金もヨベルの年まで何年かで決定されたようです。生活している上で、いろいろな困難、病気、苦労、飢饉などもあり、奴隷に身を窶したりたり、親に売り飛ばされたり、先祖伝来の自分の耕作地を売り渡さざるを得ない人たちが出てきます。しかし、50年目には「ヨベルの年」で、奴隷は元の自由な民衆に、土地は貧しくなった人に変換せよという決まりです。いわば敗者復活戦です。[日本でも歴史で「口分田」というのを習いますね。班田法に基づいて、6歳になった良民すべてに男は一人二段(約22アール)、女にはその3分の2が与えられる制度がありました。それが本当に実施されていたかどかは分からないという歴史家も多いです。皆さんは「ジュビリー2000」プロジェクトをご存知ですか?確か英国聖公会が言い出したことです。先進国は、今までアジア・アフリカに貸し付けてきた膨大な貸付金を紀元2000年にチャラにしようという呼びかけでした。その時の私の反応は鈍いものでした。「おいおい、大英帝国はさんざん植民地で儲けてきたからいいけど、同じように日本にも呼びかけるのか?むろん、日本も韓半島や満州国などから収奪した歴史もあり、払うべきものは払わねばなりません。すべてチャラにしたら、人間のモラルというか社会の枠組みが可笑しくなるんじゃないか!」と思ってしまった訳です。私も牧師、キリスト者ではありますが、人間の浅ましい本性がでてしまったなあと思わされています。[もっとも、日本社会は1100兆円以上の赤字、借金がありますので、そして今もジャンジャン金をばらまいていますので、「徳政令」ではないですが国の借金を返さないということになる可能性もないではありません。話が少し脱線しましたが、いずれにせよ、]全世界は神のものであり、神は人の権利を擁護される。土地なども本来は神のものであるという腹の括り方、信仰が重要でしょう!主イエスは「主の恵みの年」を告げるために来られたのです。そのようなことを見据えながら、つまらないエンタメ、お笑いではなく、「主を喜び祝うことこそ」、神を神として喜び、信頼することこそ、「「あなたがたの力の源である」という言葉に耳を傾けましょう。(松見俊)