ペンテコステから3週間目の主の日、教会カレンダーでは、父と子と聖霊なる神が揃い、三位一体第三主日です。礼拝の招詞は、ネヘミヤ8:10「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」という言葉に耳を傾けました。この言葉は、何事もない世界で能天気な雰囲気で語られたものではありません。異国バビロンの捕囚から帰って荒廃した国土を見、将来の展望を失いかけ、モーセの律法を聴かされた民衆は涙、嘆きの声を上げました。目を現代に向ければ、超高齢化による心身の衰弱、老老介護の課題、病気、仕事を失うことの不安、コロナウイルス感染が突き付けてくる私たち日本社会の歪みの問題など闇や死の力を感じない日々はないでしょう。このような社会において、そのような個個人の生活のただ内でこそ、泣き悲しむことではなく、「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」と呼びかけられています。
1.「ナザレ」にて
舞台は「ナザレから何の善きものが出ようか」(ヨハネ1:46)と呼ばれた辺境の地ナザレです。主イエスは「貧しい者たち」の一人、ナザレの寒村の出身でした。
2.イザヤ書61:1~2aの朗読 貧しい者の解放
主はイザヤ書61章をお開きになりました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。生きるために必要なものを奪われ、人としての尊厳を失い、闇と死のような社会に生きる人々に「解放の福音」が語られている箇所です。
3.メシア、キリストとは主イエス様のことである
主イエスがイザヤ書の巻物を係の者に返し、席に座られると、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたのです。イザヤが語った「わたし」、「遣わされた方」「福音宣教者」「霊の油を注がれた方」、つまり、メシア、キリストとはご自分のことであり、ここにイエス様が到来している、おられることによってイザヤの言葉は今、此処で、成就していると言うのです。
この言葉を聞けるかどうかは、自分を「貧しいもの」として考えるか、「貧しいもの」の傍らにいたいと願うかに懸かっています。「貧しいものたち」(’ānāwîm, ‘ānāw, イザヤ61:1)は「重荷を背負わされ、苦しめられ、貧しくされた」人のことです。徹底した僕の道、十字架への道を歩まれたイエス様でした。このお方を(父なる)神が死者の中から引き上げられた、よみがえらされたのです!その証人が私たちなのです。
4.「ヨベルの年」の解放
19節に「主の恵みの年」という言葉が登場します。これはヘ「ヨベルの年」のことです。50年目に奴隷に身を窶した人が解放され、売られた土地はもとの所有者に変換される定めです。金、財産のある人は貸付金がチェラにされたのでは腹を立てるでしょうが、主はこの解放の福音を語り、生きられました。(松見俊)