1: 神の御翼に守られて
「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとした」(37)主は、めん鳥が雛を集め守るように、私たちを翼の陰に隠し守って下さるのです。雛は自分では何もできない無力なものです。神様は雛のような私たちを、その御翼で守り救い出してくださる。神様はイエス・キリストの十字架を通して、親鳥が雛を集め、その翼で守るように、私たちをどのような罪からも救い出し、守られるのです。
2: 律法学者、ファリサイ派の人々の偽善
しかし、人間はこの神様の愛を受け入れない。無力でありながらも、そのことさえも分からずに、神の守りから出ていこうとする。それがイエス様がファリサイ派、律法学者たちに語った、偽善という行為なのです。
イエス様は、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」(25)と、7回続けます。今日は、5番目、6番目、7番目の言葉が語られます。5番と6番の内容はほぼ同じで「外側ばかりを大切にしているが、内側は汚れている」と批判しているのです。7番目は「自分は、過去にいた人々とは違い、自分がその場にいれば、過去の預言者の言葉を聞く者としていた」「自分であれば間違えなかった」と考えているということです。私たちはイエス様に批判されている律法学者たち、ファリサイ派の人々のことを、見下してしまってはいないでしょうか。
3: 偽善の恐ろしさ
偽善というものの恐ろしさは「自分は正しく生きている」と思っている、自分は偽善者ではないと思っていることです。イエス様は、正しい人を招くのではなく、罪人を招くために来られた。それは罪人が悔い改め、神様に立ち返るためです。偽善とは、神様を必要としない、悔い改めることを必要としないことです。律法学者、ファリサイ派の人々は、律法を守り正しく生活をしようとしていました。しかし、その中心に神様を求めてはいなかったのです。
4: 御翼の陰に身を寄せて
偽善から抜け出す道は、自分は無力であることを認めることから始まるのです。私たちは、イエス・キリストの十字架の下、神の御翼の陰に身を寄せる者として歩みたいと思います。自分の罪、自分の弱さを十字架の下に差し出して、どのような自分でも、主は御翼の下に私たちを隠してくださるということを信じたい、ただ、神の愛という十字架を信じたいと思います。神様は必ず、私たちを御翼の下に受け入れてくださいます。神様の愛の広さ、深さを信じていきましょう。(笠井元)